【車屋四六】ゴードンベネット・トロフィー

コラム・特集 車屋四六

自動車レースとなれば、忘れちゃ困るのがゴードン・ベネット。ニューヨークの新聞王、ヘラルド紙のオーナーである。

ある日ベネットは、地中海を自分のヨットで遊びながら「国際自動車レースのスポンサーをやろう」と思いついた。ヨットと云っても、大西洋を渡れる2000トンもあるやつだから、駆逐艦と同じようなサイズである。船の専門用語で云う、典型的なオーシャンゴーイング型である。

「ゴードンベネット・トロフィー」と呼ぶレースが企画されて、その第一回は1900年。パリ~リヨン間566kmで、優賞はパナール。当時の写真を見ると、速く走るためなら何でもありで、軽量化のために余分なものは取り去り、エンジンを載せたシャシーにサスペンションとタイヤだけ。一昔前まで良く見られた、陸送屋が運転する裸シャシーにミカン箱、というスタイルである。

メルセデスのレーシング風景。10年代の車なので後部も成形されているが、もう少し前だとエンジン+座席だけというレーシングカーがたくさん走っていた

競争マシーンは日に日にエスカレート。やがてはエンジンのお化けのようになる。もっとも1902年のパリ~ウイーン間レースの参加規則では、車重1トン以内、排気量無制限と規定された。

そうなれば、出てくる奴は頭でっかちのお化けみたいな車ばかり。例えば、パナール70馬力車は四気筒で1万3800㏄というモンスター。で、1トンオーバーを回避するためには、取れるものは全て取っ払わなくてはならなかったのである。
パナールは、それでゴードンベネット杯を手にするのだが、レース中に、しばしば時速100キロをオーバーしたというのだから、短期間によくぞ発展したものである。

競争自動車のモンスターぶりは、行き着くところを知らぬように、エスカレートしていったが、向上するのは加速と最高速度だけ。反面、操縦安定性の方はまるで進歩が無いのだから、危険なマシーンへと進化していったのである。

1903年のパリ~マドリッド1340キロのレースで優勝のモースは、1万1600㏄のパワーにものをいわせて、しばしば時速140km/hをオーバーしたという。

が、このレースは、ゴールまで完走できなかった。フランス政府が、ボルドーでレースの中止命令を出したのだ。レースの参加車は、自動車216台、バイク60台だが、年々の性能向上で、危険発生率が飛躍的に増加していた。

操安性が悪いのに、スピードばかりが速くなったマシーンとくれば事故は付きもの。が、事故は車だけではなく、観客も巻き込むようになった。当時の観客は車に無知で、走る車を見ようと前に出るから道幅が狭まる。そんな見物人の間を100キロオーバーで駆け抜けるのだから、事故を起こすなと云ったところで無理な話。

私のオヤジは明治32年製。若い頃バイクに乗り靖国神社のある九段の坂を登り始めると、歩行者が目の前を横切るので、仕方なく停まる。当時坂が急だったのか、オヤジが下手なのかは知らないが、力不足の昔のバイクは再発進が出来ず、坂の下まで戻って登り直すと、また歩行者。当時、日本の歩行者も車には無知だったのだ。

江戸からの習慣で、往来は歩行者専用。よけるのは大名行列か早馬が通る時、という習慣が生きていたのだろう。でかい自動車は気が付くが、小さなバイクは眼中に無かったのだろう。当時のボルドー市民も似たり寄ったりだったのだろう。

とにかく、当時の道は馬車専用だから無舗装。そこを自動車が100km/h以上で走れば砂埃がモウモウ。後ろのドライバーは前が見えないから、両側の並木のてっぺんを見て、この辺が道路の中心だろうぐらいで突っ走る。で、無知な見物人を跳ねとばす。

ということで、ドライバー、同乗の助手、そして見物人、そこら中で衝突、転覆で死傷者続出。当局も放ってはおけず、レースはボルドーをゴールに変更して、終了させたのである。

こうして、1894年に始まった公道レースは終わりを告げ、以後はサーキット開催に移行する。が、ゴードンベネット杯は、見物人が少ないアイルランドで開催、メルセデス60馬力が優勝した。

“ドイツで生まれた自動車はフランスで育った”と云われるように、自動車レースもフランスを中心に発展を続けたから、ゴードンベネット杯も仕切りはフランス自動車クラブだった。が、1905年を最後として公道レースを中止、新しいサーキットでのグランプリレースに向けて準備を始めた。

プジョーのレーシングカー。この車も10年代らしく、前から後ろまでスタイリングは良好である