1991年6月23日、朝起きて「さてどうなった」とTVのスイッチを入れたら驚いた。こいつは夢かと思ったり、今日は4月1日でもないし。とにかくルマン24時間レースで、マツダのロータリーエンジン車がトップを走っていた。結果は優勝だった。
こいつは快挙と興奮したが、そんな自動車レースでの興奮は二度目だということを思いだした。一度目は28年前の1963年5月4日。完成したばかりの日本初の本格的レース場、鈴鹿サーキットで開催の第一回日本グランプリのGTレースだった。
本命と思われたトライアンフTR-4,そしてTR-3,TR2,MGB、MGA、フィアット1500、ポルシェ356、スカイラインスポーツ、セドリック、そしてフェアレディー1500がスタートして、第一コーナーに飛び込み、遠くの登りを左から右へ走って視界から消えていった。
しばらくの時が過ぎて、最終コーナー辺りの観客席から「ウオーッ」と、どよめきが上がった。グランドスタンドの私の視野に先頭の車が見えた。で、どよめきの理由が判った。それはあり得ない不可思議な出来事、場内全部が狐につままれていた。
二番手に50mも差を付けてトップを走っているのが、国産車だったのだから、誰もが目を疑った。「どうせ壊れるさ」と誰かがつぶやいた。が、トップのまま周回ごとに差を広げながら優勝してしまった。
どぎもを抜いての優勝車は、フェアレディー1500・SP310。ゼッケン39を操縦したのは、日本ダットサンクラブ(NDC-TOKYO)の古いメンバー、田原源一郎だった。
彼とは昭和31年からの付き合いで淺草老舗の若旦那。気性は江戸っ子気質で豪蓬磊落(ごうほうらいらく)親分肌。当時は20数頭の馬主で、その稼ぎが良いことで仲間から羨ましがられていた。
話変わって第一回日本GPでは「アマチュアのレースに関与せず」というメーカー同士の申し合わせがあった。当時日産はサファリラリーに全力投球でGP無視だったが、田原源一郎が車を買って出ると宣言。旧知の米国日産片山豊社長から改造キットが米国から届く。仕方なく日産が改造を引き受けたというのが事の顛末。
日産三田工場で改造車を引き取った源ちゃんは、ガキの頃からの遊び仲間、淺草の佐藤健司の所へスッとんでいった。
「ケン坊ひでぇことになった」なかなか始動しない、掛かれば爆音、アイドルではブルブル震え、硬くなったサスで走ればケツが痛くなる、とこぼしまくった。
さすがケン坊はSCCJ(日本スポーツカークラブ)の創業メンバー。片山オトッツァンのイチの子分らしく、そこらは詳しい。「こいつはファクトリーチューンの競走用だから速いよ」で納得。
鈴鹿では、いくら高性能の舶来でも、量販車とファクトリーチューン車では、大人と子供だった。で、先頭でゴールしたあと、SP310が消えたパドック裏に私はとんでいった。
「源チャンおめでとう気持ちよかったろう」「バカ云っちゃいけねぇ怖かったよ」。三番手からスタート、最初のコーナーをトップで抜けたら後は夢中。何周かして落ち着きが出て、ピットサインで一番を確かめ、バックミラーに遠く映る後続車を見たところで、急に怖くなったという。
当然、それからは慎重運転。すると後続車の姿がコーナーを曲がるごとにミラーの中で大きくなる。こいつはいかんと気を持ちなおし、懸命に走ったと云っていた。
人気絶頂のブルーバード310がベースだからSP310。登場は61年の第八回全日本自動車ショー。片山オトッツァン念願のスポーツカーだから、ニューヨークの国際自動車ショーでもお披露目。で、改造キットも用意してSCCA(米国スポーツカークラブ)のレースに挑んだものだった。
改造キットはエンジンやサスばかりでなく、写真を見れば判るように、通常よりフロントグラスが低い。これがGP終了後「市販車と違う」とクレームが付く。が、米国では市販されているとのことで、優勝が認められたという経緯もある。 面白い話がある。SP310がお目見えした時は三座席。前席の後ろに一人分のシートが横向きに付いていた。GPの勝利で人気が出て、売れて、64年にマイナーチェンジした時には、普通のスポーツカーらしい二座席になっていた。
日本では「二人しか乗れない」で不人気を避ける三座席も、元来SP310の開発は米国市場重視だから、輸出仕様は二座席。我々は「回転計が付いている」だけで喜んでいたが、欧州のスポーツカーにも引けを取らぬ雰囲気で、前進四速MTは二速から上がシンクロメッシュ、走れば最高速度は150キロをマークした。
その頃の常識でスポーツカーというものは、バックヤードビルダーと呼ぶ連中の小さな工場で、手作り同様に生産するものだったが、SP310はコンベヤラインによる大量生産という珍しいスポーツカーでもあった。
アメリカのレースで暴れ回ったSP310は、やがてSP311(1600)になり、モデルチェンジで2000㏄のSR211へと進化発展するが、その後に登場するZは、片山オトッツァンが100万台も売って、アメリカにダットサンZの名を知らしめることになる。