浜名湖を挟んだスズキとトヨタの生い立ちは、面白いほどに似ている。スズキ創業者の鈴木道夫は農家の生まれで、14才で大工の道に。一方、豊田佐吉は大工の子だが、両人共通するのは大の親孝行。
遠州と呼ぶ浜名湖一帯は、江戸時代以前から遠州木綿の産地で知られ、どの家の女達も家業が終われば夜、機(はた)を織り、一家の収入を助けるのが日常だった。
遠州の機織りは1500年ほど前に朝鮮半島からの秦(はた)一族が住みつき布を織り始めたのが、遠州一帯に広まったとされている。で、布を織る織機を、秦→機/ハタと呼ぶようになったようだ。
鈴木、豊田、両家の息子達は、疲れた体に鞭打って夜なべをする母親を見ながら育ったので、何とか楽にしてやりたい一念で、高性能織機を工夫完成して母親にプレゼントしたのである。
これから先はスズキの話しだが、それまでの10倍も布を織る機の噂はたちまち近隣に広まり、注文殺到で工場を作ったのが1909年、道夫21才の時だった。

1909年/明治42年は、日露戦争勝利のあと赤坂離宮/現迎賓館落成。本邦初常設相撲館・両国国技館完成、中国ハルピン駅で伊藤博文首相暗殺なで知られる年である。
鈴木の織機は好評で、特許も取得、輸出も好調、36年頃には世界的織機会社に成長する。で、道夫は考えた…当社の織機は半永久的寿命があり、いずれ世界に行き渡れば需要が頭打ちになり、更なる発展を望めば、消耗品の製造が必要と考えた。
試行錯誤のあと白羽の矢を立てたのは、自動車だった。早速オースチンセブンを参考に乗用車を開発、完成したのが36年頃。が、その乗用車は、支那事変から太平洋戦争へと移行する中、兵器生産転換で、量産市販には至らなかった。

さて、思わぬ敗戦で、鈴木は機織り生産を再開し5年が経った頃に、やがて二代目社長になる鈴木俊三常務が、好きな魚釣りに行くのに、自転車にエンジンを付けたらと考えた。遠州は空っ風でも知られる地域である。
試作車が完成すると、当時評判の{鉄腕アトム}にちなみ、アトム号と名付けた。アトム号は快調で、市販しようと云うことになり、パワーアップしたパワーフリー号の市販結果は好評だった。
いずれにしても、自転車用とはいえ、短期間でエンジンを完成出来たのは、戦前の自動車開発が無駄ではなかったことの証しだった。で、二輪は発展を続けて、54年になると、鈴木織機(株)は鈴木自動車(株)と車名を変更した。
本格的自動車メーカーの名乗り挙げた鈴木は、翌55年にスズキフロンテ軽自動車を完成して、戦前からの念願を果たした。
スズキの、それからの発展は皆様御承知の通りである。

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。