消えた九龍塞城と津々見友彦

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ポルトガル領だったマカオで、グランプリ公道レースが始まったのは1954年。そのレース、1990年頃はスポンサーが三菱自動車と煙草のマールボロだから、期間中は街中がコーポレートカラーの紅白に染まる。私達に支給されるブルゾンも紅白だった。

ということで毎年通ったわけだが、当時マカオには空港がなく、香港から高速船で約1時間ということになる。

現在の香港国際空港開港前のカイタック空港=啓徳空港は、世界の路線パイロットが嫌がる空港だった。着陸時に建物すれすれになるからだ…天気良ければ毎回左手に見えるのが有名な九龍塞城=日本人はクーロン城と呼ぶが、クーロンというよりはウロンな雰囲気の高層建物の無秩序な塊だった。「あそこに入ると出てこられない」と注意された無法地帯…麻薬・売春・賭博・偽物作りが当たり前な所だったという。

香港は阿片(アヘン)戦争の勝利でイギリスが99年間領有した所だが、九龍地区だけが飛び地的に清朝の管理ということで無法地帯が生まれ「東洋のカスバ」と呼ばれたこともあるそうだ。周囲の石塀は1941(昭和16)年に占領した日本軍が飛行場改修に使い、写真の頃は裸の状態だった。が、1997(平成9)年の返還直前、中国は目障りな無法地帯の取壊しをイギリスに押しつけたから、今では公園になっている。

さて、マカオグランプリは、1983年にF3が登場してからはF1の登竜門でもあり、アイルトン・セナやミハエル・シューマッハなどが巣立っていった。

マカオグランプリ―F3ドライバーへのインタビュー:三菱指定の居室はマンダリンオリエンタルホテル3階・直下にスタートラインというベスポジ・その部屋から望遠レンズで。

私が取材に通った頃のある年、シューマッハの勝利に出会ったことがある。しかし、楽しかったのはクラシックカーのレース。そして三菱のワンメイクレース…親しい津々見友彦が紅白色のミラージュを駆って走り、優勝したらジャッキー・チェンから優勝杯を受け取ったりで、親しみが一杯だったからだ。

成龍盃=ジャッキー・チェントロフィー優勝でシャンペン抱えた津々見友彦と左2人目がジャッキー・チェン:紅白の女性達は三菱ピーズレディーの面々。ホテル居室の窓から撮影。

津々見友彦は旅行や試乗、取材で一緒だったり、AJAJ=日本自動車ジャーナリスト協会の会員同士でもあり長い付合いだが、競争自動車のプロドライバーとしては職人的技術で、堅実に勝ちを重ねていくというタイプ。いわゆる一発屋ではなかった。

津々見さんは1941(昭和16)年の満州生まれ。自動車レースデビューは、鈴鹿の第1回日本グランプリにドイツ製DKWでの出場。それからは日産→トヨタ→いすゞと契約を続けて、レースで活躍を続けた。トヨタ在籍中は、有名なトヨタ2000GTで数々の国際速度記録を樹立したりもしている。また、石原裕次郎の映画「栄光への5000キロ」ではドライバーとして出演したりもしている。

香港啓徳空港着陸直前の九龍塞城:偽時計の元締めに会う知人に同行…まっ昼間陽が当たらず暗いジメジメした狭い路地・15階程のビルにエレベータなし・住人の不審な目つきが怖かった。

返還の前年に、カミさんと行った香港にそれほどの変化はなかったが、近代都市のようになったマカオの様変わりには驚いた。が、今では既に昔むかしの想い出になってしまった。

(車屋 四六)

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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