チャールズ・リンドバーグは誰もが知っている飛行家だ。1020年頃から、大西洋横断初飛行に多額の賞金が掛けられるようになり、名だたる飛行家が先陣争いをしていた中で、無名の飛行家がパリに着陸したからだった。
リンドバーグは1902(明治35)年デトロイトに生まれ、WWⅠ終戦後に軍払下げのカーチス・ジェニーを買って曲芸飛行で稼いでいたが、22年空軍に入隊すると首席の成績で現役になり、退役後は危険だと言われた郵便飛行士になった。
やがて彼も大西洋横断に野望を抱き、セントルイスの実力者を説き伏せて資金集めに成功。当時最優秀機のベランカ2.5万ドルを注文するが、無名操縦士に難色を示した社長判断でNG。が、捨てる神あれば拾う神ありのコトワザのように、やがてカリフォルニア州のライアン社が応じたのは、彼が郵便飛行士だったからかも。で、4座席ライアン郵便機を改良したので、結果1万ドルで済んだのもラッキーだった。
出資者に敬意を払い、スピリット・オブ・セントルイスと命名された機体は、1927(昭和2)年5月20日朝、サンドイッチ4袋と2本の水筒を載せて、機体重量975㎏にガソリン1700ℓで2330㎏と過荷重になったライアン機は、フラフラ状態でニューヨークを離陸した。
途中、翼やプロペラの着氷は高度を下げれば溶けるが、一番の難敵は睡魔だったと後日述懐している。モ一つの困難は、無線標識などない当時、方位を知るコンパスだけの推測航法での大西洋横断だった。
私も自家用操縦士の受験で、与えられた風向風速で偏流計算をしたことがあるが、無線機もなく目標物もない大西洋では情報ゼロだから、たまに出会う漁船や汽船の排煙、波頭などで風向風速を推測、後は郵便飛行士の経験と勘で修整したのだろう。
本来なら六分儀での天測航法なのだが、操縦席前に大きな燃料タンクで前窓がなく、横窓からでは上翼で空が見えない、私なら離着陸だって難しい。結局、遭難者多出の難しい郵便飛行で鍛えたノウハウと勘という自身の腕と経験を信じたのだろう。
が人類初の冒険飛行は成功した。5月21日、22時21分、パリのブルージェ飛行場に着陸した。飛行距離5810㎞、飛行時間33時間29分21秒で、狙ったオルティーグ賞と賞金2万5000ドルを手にした。
ジェームズ・スチュアート主演の映画「翼よ!あれがパリの灯だ」との名言は、後から生まれたもので、リンドバーグ着陸後初の会話は「英語話す人いませんか」だったという…そこがパリだと確認したかったのだ。
横断に成功した25歳の彼は即日英雄になり、帰国後のニューヨークでのパレードの花吹雪は有名だが、WWⅡ戦勝、アポロ月着陸などたくさんのパレードがあったが、リンドバーグ凱旋の花吹雪を越える花吹雪はまだないそうだ。
功なり、裕福な女性と結婚したが、有名ゆえの長男の身代金誘拐・殺害と悲運にあうが、1932(昭和7)年パンアメリカン航空の北方太平洋ルート調査で、アラスカ→日本→中国まで飛び、日本で歓迎を受けた。また70(昭和45)年の大阪万博にも来日している。
(車屋 四六)
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。