片山豊よもやま話-1

all コラム・特集 車屋四六

片山豊こと我々のオトッツァンは、入社から死ぬまで、日産を愛し続けた人だった。歴代社長、重役は業績向上には熱心だったろうが、日産を愛することではオトッツァンにはかなわないはず。

なのに、数々の功績を上げる片山に日産の経営陣は冷たく、日産の癌とも呼ばれた労働組合が、片山ボイコットの先鋒だった。世界では無名のダットサンを、豪州ラリーの優勝で世界に知らしめたのに、帰国したら「俺の席に労働組合の奴が座っていた」と、オトッツァンは笑いながら話していた。本来なら、宣伝部長に昇格当然なのに、課長の席を失ったのだ。

さすが豪放磊落なオトッツァンも、そのころ進退を考えはじめていたようだ。そこに「アメリカに行ったらどうだ」と救いの手を差し伸べたのが原科専務だった。

原科恭一は、帝大=東大卒で戸畑鋳物入社だから、鮎川義介子飼いの人物らしく昭和10年入社の片山を良く知る役員だった。

一方、他の役員と労働組合幹部は、トヨタも休眠状態の不況米国市場に行けば、オ手上げで自分から退職するだろうと解釈したから、原科専務の提案を承認したが、片山をよく知る専務は、彼なら困難を乗り越えるだろうと考えていたのだろう。

此処で話は遡るが、ある日のオトッツァンが言っていた。「鮎川がお前は馬鹿だから東大は無理・慶応にでも行って俺の所に来い」と云われたので日産に入ったが「俺の初任給70円・東大卒が80円・東大に行けば良かったと思ったが後の祭り・俺が80円になるまでに三年かかった」と笑っていた。

実は、麻生豊を子供の頃から知る鮎川は、彼に経営の才があるのを見抜いていたのだろう。もし後継者とするならば慶応義塾と考えたのは、戦前の日本経済界は慶応出身者が多かったからだ。

日産コンツェルンの総帥鮎川義介/1880~1967:山口県生/帝大工学部卒後渡米/日産創業/貴族院&参議院議員/日立製作所&造船、日産自動車、日産化学、日産火災、帝国石油、ビクター等々日産コンツェルンは傘下100社越えの財閥だった。

オトツァンの旧姓は麻生だが「俺は婿に行ったんじゃない家内が片山家の一人娘だったから姓を換えたんだ」と云っていた。

ここからはオトッツァンの一の子分佐藤健司=ケン坊の話で「オトッツァンは鮎川義介と親戚なんだ・日産自動車創業前鮎川がオトツァンの姉に金の相談に行ったんだよ」と。

その姉とは藤田男爵夫人で「主人が亡くなる前、鮎川は良い人物・出来るだけ相談にのるようにと云われてます」ということで40万円を渡したと云う。WWⅡ前は階級制度厳しい時代、男爵家に嫁入りするのだから麻生家は相当な家柄だったのだろう。

いずれにしても鮎川は親戚の子供の豊を、成績良ければ後継者にとの思惑があったようだから、もしWWⅡがなければ、車好きの青年は、日産自動車の社長になってもおかしくない立場だったのだ。

が、戦争がオトツァンの人生を狂わせた。戦前からの長い歴史ある日産のブ厚い社史は三冊、横並びで16㎝ほどにもなる、丁寧に見たわけではないが、そこには数々の功績をあげた片山豊の名は見当たらない。戦後の日産が片山ボイコットで抹殺したのだろう。

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

Tagged