戦後のスチュードベイカーとL.ローウィ

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WWⅡ中、軍用トラックや飛行機発動機で国に貢献したスチュードベイカーは、他社同様、戦後、即自動車造りに戻った。そして1947年には、ライバルに先立ち戦後のモデルを発表する。

それはレイモンド・ローウィが関わる作品の始まりだった。
1893年パリ生まれのローウィは仏軍大尉としてWWⅠに従軍、1919年渡米。著書「口紅から機関車まで」とあるように多分野で活躍し「工業デザインの父」と呼ばれ、モチーフは流線型だった。

またイラストやグラフィックでも活躍、シェル・BP・エクソン・ナビスコ・ラッキーストライクなどのロゴ。煙草のピースやコロナ、不二家ルックチョコなどで日本にも縁が深い。

米大統領専用機エアフォースワンの外装やコンコルドの機内インテリアなども手がけ、大物ではペンシルバニア鉄道の機関車が有名だ。そしてスチュードベイカーとの関わりは1930年後期に始まる。

そして47年にローウィの傑作新型車の登場となる…当時の米国車は、朝鮮動乱に登場したジェット戦闘機をモチーフのデザインが流行していた。先ず49年のフォードの顔にジェット戦闘機の吸気孔がイメージされ、50年頃からの各車に尾翼をイメージする、テイルフィンが付き始めていた。

スチュードベイカーも乗り遅れてはと、50年のフェイスリフトで吸気孔を取り入れたが、大きく回り込んだリアウインドーと相まって、前後の区別が付かず誰もが驚き感心して{Coming or Going?}=走るのはどっち向き?と報道した。

前か後ろか?と話題になった1950年型スチュードベイカー・コマンダー/米のコンクールドエレガンスで。

もちろん評判はよく、次のモデルも先進デザインが評判を呼んだが、徐々にビッグスリーの包囲網に押さえ込まれ、経営はジリ貧に追い込まれていった。
28年に名門ピアースアローと合併した頃の勢いは何処へやら、54年にはジリ貧組の名門パッカードと合併するも流れは止まらず、55年以降はフルモデルチェンジの余裕もなくなってきた…もちろんローウィも去っていた。

が、58年パッカードを断捨離、59年賭けに出る。市場動向に先行して小型車ラークを発表し{夢よもう一度}とラークベースにローウィデザインの斬新アバンティを発表した。
インディ500のペースカーに選出されたりして好評だったが、評判のFRPボディーの下請け工場からの納入が滞り、自社生産に切り替えるも時すでに遅く、キャンセル続出でジリ貧が再現した。その63年12月時点で、総生産台数は4643台だった。

で、64年米国拠点を閉じカナダへ。前照灯を丸から角にして小規模生産に移るがそれも駄目…その後代理店経営者達の手で再開したのがコルベットエンジンを搭載したアバンティⅡで、74年~80年にかけて日本にも少量輸入された。更に82年製造権が不動産屋の手に渡るが86年倒産。その後も製造権は転々と渡りながら生き長らえたのも、美しいデザインゆえだったのだろう。

美しさでは絶品の初代スチュードベイカー・アバンティ/トヨタ博物館蔵。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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