19世紀末、イタリア北部に住む蒸気機関士のロドルフォ・マセラティには6人の男兄弟がいた。やがて自転車工場に勤める長男カルロが内燃機関を自作、完成した二輪車でレースに優勝。それに目を付けた貴族の出資で創業、事業は好調に発展した。
が、1900年、ランチャが走る姿を見て、将来は四輪と決心した。話は変わり、弟二人がイソタフラスキーニに就職し、WWⅠでは航空発動機用に雲母で絶縁の点火栓を開発して財を成すが、これがマセラティ兄弟の優れた競争車を開発し活躍する資金になったことは云うまでもない。
マセラティの創業は1926年だが、最初のグランプリカーには、ボローニア市紋章の海神ネプチューンのトライデント{三つ叉鉾}がラジェーターに冠されていた。
そのティーポ26は、直列八気筒DOHC・1493cc+スーパーチャージャー・120馬力で数々の勝利を収めた。27年になると2ℓ・145馬力の26Bも登場、こいつは時速200㎞をマークする。
その26Bから発展したのが8C-2500(発動機は直八DOHC+スーパーチャージャー・2495cc・170馬力が30年に登場すると、国際レースに七回優勝という戦歴に輝くが、更に8C-2800を追加、33年には8C-3000も登場する。
33年迄で100回も優勝を収めたマセラティだが、国家を背景に活動を開始したドイツ勢には刃が立たなくなり、GPを撤退して作戦変更…その頃はやり始めたレーシングカーの街乗り仕様を開発、市販するという手段だった。
そしてファクトリーチームの活躍は低調となり、市販レーシングカーによるプライベートチームの活躍時代を迎えた。
これまでのマセラティは八気筒の話ばかりだったが、31年に直四DOHC+スーパーチャージャーを開発し、登場した4C-1100は1088ccで105馬力で、多くのレースで無敵を誇った。
で、当然のように発展型も登場…32年・4C-1500→33年・4C-2000、→34年-4C-2800というようにである。
また36年には直六DOHC+スーパーチャージャー・1493cc・175馬力の6C-1500が登場して、当時このクラスで好調だった英国ERAや仏国ドラージュ、伊国アルファロメオを相手に善戦したが、勝ち誇るというまでにはいかなかった。
このようにレースに執念を燃やし続けたマセラティは、WWⅡを境にポリシーが一転する。レースで蓄積された技術でスポーツカーを造り、スポーティーな乗用車を造り、市販するという二本立てで、やがてレースからは手を引き、市販車だけという、こんにちの姿になるのである。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。