6気筒6C-1750でイタリア国内のレースに勝ちまくったアルファロメオのヤーノは、今度は、ルマンやツーリストトロフィーなど著名な国外レース制覇という野望を実行に移した。
で、1930年、新しい8気筒のスポーツカー開発に着手、翌年デビューしたのが8C-2300だった。これまでは同社のツーリングカー/乗用車をベースに競争車を造ってきたが、今度は純粋に競争が目標の二座席スポーツカーを開発したのである。
が、シャシーは6C-1750の流用なので、外見、特に前からの姿は似ている。1966年、英国ロードモンタギュー博物館で初めて見たときには、1750かと間違えたのを憶えている。
エンジンも6C用の6気筒に2気筒を足したものだから、ボアストローク65×88㎜も同じ、DOHCというヘッド形式も同じで、結果8気筒2336ccが完成し、ルーツブローアーで加給した結果142馬力という当時としては髙出力を得たのである。そして高度なチューニング車では180馬力/最高速度225㎞に。
そのデビュー戦は31年のミッレミリア。名手ヌボラーリはカラッチオーラのベンツSSKLをリードしていたが、タイヤトラブルでベンツに負ける。が、その後は順調に勝ちを稼いでいった。
アイリッシュGPとツーリストトロフィーを手始め、各地のレースで入賞、優勝と勝ち星を挙げていったのである。勝ち星の数は枚挙にいとまがないが、特筆すべきは、31年、32年、33年、34年とルマン四連続優勝という輝くべき記録だろう。
当時、ルマンの参加車は四座席という競技規則があり、8C-2300は、ホイールベース2750㎜を3100㎜に伸ばして2+2に改造しての参加だった。
そのルマンでは、ベンツ7L、ブガッティ5L、ベントレイ4.4L、その他8Cより大排気量の名車達が皆太刀打ち出来なかったのである。もちろんミッレミリアでは32年、33年は上位独占、ベルギー24時間GPも二年連続上位入賞する。
一方、GP用にフェンダーやライトを取り去りチューニングされたモンツァも、31年~33年にかけて活躍し、更にモンツァはスクーデリアフェラーリにより8C-2600に発展して、35年頃まで勝ち続けたのである。
この連戦連勝の傑作8C-2300は更に発展して、8C-2900が登場するが、値段が2300の二倍という高価なために、30台ほどしか作られなかったから、稀少なコレクターアイテムになっている。
もちろん、レースで好成績を挙げたことは云うまでもない。WWⅡ後の米国ワトキンスグレンで優勝さえしているのだ。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。