【車屋四六】点火装置の革命児登場

コラム・特集 車屋四六
95年のルボラン掲載記事:手前が初期、奥が95年頃の新型トランジスタ点火装置:会社創立や点火装置開発のきっかけなどが記してある

1960年頃、世界に先駆けて電子回転計を開発し大成功の永井電子は、それから約3年後に、ウルトラトランジスタ・イグニションシステムを開発した。

発売した点火装置は、今のようなフルトランジスタ型ではなく、セミトランジスタ型だったが、当時としては革命的商品。それまで半世紀近く君臨してきたシステムを不要にするものだった。

それまでは、ディストリビュータ回転軸のカムで断続するブレーカーポイントで、コイルの一次側電流を断続、二次側に高圧を発生、点火栓に火花を飛ばす仕掛けだった。

が、断続ごとに飛ぶ火花でポイント面の焼損が避けられず、加えて高回転になるにつれ電圧が低下するという欠点を持っていた。で、1000~2000㎞毎にポイント面の磨きが必要だった

永井式点火装置が如何に優れたものかを解説した雑誌広告

さらに、カム面との摺動によるポイントヒール部の摩耗で、ポイント面のギャップ調整も不可欠という面倒を繰り返す。結果、毎月修理業者に払う上納金?が必要になる。

そこで一次電流を減らせば火花が弱くなり、焼損も減るという理屈で開発されたのが、永井式ウルトラ点火装置だった。
で、弱くなった電流を、トランジスタで増幅したことから、トランジスタイグニションと呼んだのである。

当初、ウルトラの心臓部はゲルマニュームトランジスタだったが、シリコントランジスタが実用になると、選手交代で性能も向上する。そして時を経て、もう焼けるポイントもないという、今のフルトランジスタ・イグニションに発展するのである。

永井電子には叱られかもしれないが、ウルトラ製品は強運の持ち主でもあった。
永井式電子点火装置が登場した年に開催された鈴鹿の日本グランプリで、いち早く目を付けたメーカーチームの採用で、いきなり檜舞台に上がったからである。

その後、日本のモータースポーツは全国に波及してイケイケドンドン、その波に乗り回転計も点火装置も売れていった。
で、永井の点火装置と回転計はレースの必需品になり、それにつられてスポーツ愛好の一般ドライバーの車にも普及していった。

永井のラッキーは未だ続く。67年(昭42)に公害対策基本法が公布され、運輸省の排気ガス規制で、69年CO2.5%、70年にHC規制が実施される。
その目標到達には、先ず良好な燃焼が必要とあって、スポーツからは離れ、別の面から電子点火が歓迎されるようになる。
追い打ちを掛けるように、73年には、折からの石油ショックで電子点火による燃費向上も浮上するのである。

電子回転計の雑誌広告:電子式登場前は変速機やカムシャフトからフレキシブルワイヤで回転計を駆動する機械式だった

もっとも、ウルトラが運の強さだけで業績が伸びたわけではない。常に自動車メーカーが手を付けない分野の技術先行で、製品の開発努力を続けたのである。
そんな努力が幸運の女神を呼び込む切っ掛けになったのだろう。

永井の電子点火装置が登場した63年(昭38)頃の日本では、漫画ブームが頂点を迎えていた。それまでの、少年少女向け雑誌の廃刊が相次ぎ、少年キング、週刊マーガレットなどが創刊された。
TVでは、赤塚不二夫の“おそ松くん”藤子不二雄の“おばけのQ太郎”石森章太郎の“サイボーグ009”白戸三平の“カムイ伝”や“忍者武芸帖”、他にも“エイトマン”“ゼロ戦はやと”“紫電改の鷹”“忍者月光部隊”等々、数多くの作品に若者が熱中した。

で、この頃から、だいの大人が人前で恥じることなく漫画を読むようになった。
それまで、ちゃんとした家の子供達が小学校を卒業すると「これからは漫画はいけません」と親に言われて、ため込んだ漫画本を、近所や親せきの子供らに泣く泣くあげたものだった。