1899年/明治32年、何時ものようにニースの丘を、ロスチャイルド男爵が愛車パナール8馬力で駆け上っていた。登坂中の全ての車を追い越すのが楽しみで。
或日、その楽しむ男爵の鼻をへし折った奴が現れた。悔しがった男爵だが、そこは紳士どうし、穏やかに話し合って、その車を買い取った…車の売主はイエリネック、車はダイムラー12馬力だった。
ダイムラーを手にした男爵、相変わらず俺が一番と自惚れていたのは、浅はかだった…一番は20日ほどで、また抜かれて、男爵の車がまた1台増えた…売主はまたもやイエリネックで、車はフェニックス・ダイムラー24馬力、時速70㎞という俊足だった。
さて、メルセデスというのは女性の名前だが、由来を知らずにメルセデスと憧れているファンが如何に多いことか、ということで、そんなファンのために由来をひとつ。
その前イエリネックは、更に早い車を手にするにはメーカーを支配すればと考えた。そこでダイムラーに「負けない車を造れば全車引き取る」と契約。で、ダイムラーの相棒マイバッハが開発した35馬力車が気に入り、愛娘の名「メルセデス」と命名した…これが銘ブランド誕生の由来である。
イエリネックは1901年になると、メルセデスでレースに殴り込み、常勝パナールに土を付けて王座から蹴落とした。
その車は翌年、世界一速い市販車、メルセデス・シンプレックス40馬力(時速120㎞)として市場に投入された。
更に1903年には、市場にマイバッハの会心作60馬力が投入されるが、こいつは時速130㎞で巡航という市販車では信じられないという高性能で、満足した彼は「イエリネック・メルセデス」とフルネームを付けて喜んだという。
ここで一言:メルセデス=MERCEDESをドイツ語だからメルツェデスと表記する専門家が居るが、古事の権威故五十嵐平達は「オーストリーの貴族ではあるが人種的にはスペインだから娘をメルセデスと呼んでいたはず」と云っていた。
さて、1900年に創業者ダイムラーの死去で経営者はマイバッハになったので、イエリネックとのコンビは、この二人と云うことになるが、やがてイエリネックが実権を握ることになる。そして、マイバッハは07年コンビを解消し去った。
が、マイバッハの人生は終わらず、今度はツェッペリンに乞われて1909年に会社創業、航空発動機に天賦の才を振るうのである。
その後、乗用車も製造し、20年代から30年代にかけてのマイバッハは、ドイツ最高級と位置づけられたグローサーメルセデスに匹敵する地位の高級車だった。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。