現在、ポルシェは自動車メーカーだが、本来はポルシェ博士が率いる設計請負業である。だから開発順にポルシェがデザイン事務所を立ち上げてからの通し番号が付く/911,928のように。
写真はポルシェの開発番号32だが、VWビートルではない。
若い頃からポルシェの車造りには三つの夢があった。最強のレーシングカー、最良の大衆車、最良の農業用トラクターを作ること。
20世紀初頭の世相を反映し、最強レーシングカー作りをダイムラーで果たしたが、最良大衆車の注文はなく、30年代に入り、ようやく注文が舞い込んだ。
DKW、NSUと並ぶドイツ二輪の名門、ツンダップからの注文だった。喜んだポルシェは、32年に長年の構想とノウハウを注ぎ込み開発したのが、バックボーンフレームのRRセダンだった。
それは、後のビートルの母体となる機構を全て備えているが、エンジンだけは水平対向ではあったが五気筒星形、こいつはツンダップの強い要求があったからだった。
が、せっかくの車も没になり落胆していると、今度はNSUかの打診を受けた。既に基本はツンダップで開発済みだったので、作業は順調で34年に、3台のプロトタイプ(写真トップ)が完成した。
見ての通り、後年のVWビートルの先祖ということが見て取れる姿である。ポルシェの開発番号は32である。ちなみにツンダップ社の開発番号は12だった
このNSU32は、WBがビートルより長かったから、キャビンが広く快適だったろう。搭載エンジンは、空冷水平対向四気筒1470cc28馬力で最高112km/hだが、低価格を要求されたVWでは1131cc25馬力/105km/hとなる。
残念ながらNSUの大衆車も実現しなかった。不況だった二輪業界が息を吹き返しNSUも景気回復。で、エンジンと車体工場の莫大な投資に嫌気がさしたからと云われている。
が、ポルシェ事務所の方は、これで開発したトーションバー型サスの特許が売れて儲かったという。特許の契約先は、シトロエン、アルファロメオ、フィアット、モーリス、スタンダード、ボルボなど、一流企業が雁首を並べていた。
ポルシェ念願の夢、最良の大衆車もこれで駄目かと思ったら、ラッキーが舞い込んだ。今度の注文主は、飛ぶ鳥を落とす勢いのヒトラーだから大金星、鬼に金棒である。(写真右:KDFはナチの大々的発表宣伝でドイツ国民の意気高揚に威力を発揮したが、本当の活躍はVWとして戦後復活してからだった)
ポルシェとヒトラーの出会いは偶然ではなく、既に面識があった。ダイムラー在籍中に役員から紹介され、この時ヒトラーはポルシェという人物に好意を持ったようだ。
33年のベルリン自動車ショーで{国民車構想}をブチ揚げた背景には、そんな関係がひそんでいたからという。
VWビートルのプロトタイプ完成は36年だが、短期開発を可能にしたのは、没を繰り返した実績があったればこその成果だった。
話変わって、ダイムラーやベンツ、パナールが開発した型式FRは馬車からのものだが、RR(後エンジン後輪駆動)いうなれば後ろから押すという発想は船からと云われている。
RRはポルシェが最初ではない。イタリー人サンギュストが23年に発表。有名なコルビジェ28年発表の大衆車もRRだった。