昭和から平成と年号が変わったのは昭和64年1月7日だった。
昭和天皇87歳、十二指腸ガンでの崩御によるものだった。天皇の重体が公表されたのは、その前年の昭和63年9月だった。
昭和63年というと1988年、天皇重体で日産のセフィーロのテレビCMで、井上陽水が「お元気ですか~」と明るく叫んでいたのが、元気の部分だけ音声が消されて、クチパクになったのを覚えている。墓石業者のCMが消えたのは、テレビ局による自主規制だったそうだ。
そんなことがあった88年に登場したのが、マツダの新ブランド、ペルソナだった。
もうペルソナといっても、世間からは忘れられたブランドになってしまったが。
当時の日本はバブル絶頂期で、日本中が頂点を目指して突進中。マツダも日本の一流を目指したのか、販売系列5チャンネル体制に、ということは日本の2大巨頭と体制だけは同列に並んだ。
チャンネルが増えたマツダは、必要に迫られてやたら新ブランドを立ち上げた。その一つがカペラをベースに開発したペルソナだった。
当時トヨタの技術屋がいみじくも云った「マツダさんの底力を見直しました」。一度にあれほどの新型車の開発は、われわれでも無理だと。多少の皮肉が含まれていたのかもしれない。
が、ペルソナは新型車要求の帳尻合わせではなかったようで、日本文化を盛り込んだ独特なクルマ造りへの挑戦だったと担当者は語った。
ちなみにペルソナとはラテン語で「人」「個人」という意味だと解説した。いまでもそうだが、マツダは日本市場よりアメリカ、とくにヨーロッパでは昔から信頼度が高い。当時から輸出比率が高く、とくにカペラなどはグローバルな視点に立って開発された主力車種だった。
さて、ペルソナ開発の動機は販売店からのニーズで、是非ハードトップを供給してくれという要望に応えて開発したのだと説明した。当時の市場はそんな要望が強く、トヨタも販売店からハードトップを供給してくれと要望されて、カリーナEDが生まれたのを見てもそれが判ると付け加えた。
転倒時の安全が問題視されなかった時代だから、完全なハードトップは美しい姿造りには好適な素材だったのだが、運が悪いことにエアコンの普及と重なり、販売を始めた頃には、窓を開け放ちキャビン内を風が吹き抜ける開放感を味わう必要もなくなり、美しい姿だけでは人気が取れない時代になっていたのである。ただ運が悪かったとしか云いようがない。
が、美しさの追求はインテリアの方にも力を入れて、テレビCMでも「美しさはインテリアから」というように、カタログを開くと、最初がインテリアだった。報道発表時に開発者は「女性に乗ってほしい」と強調した。
たしか室内に灰皿がない日本で最初のクルマだったと記憶する。エクステリア、インテリアともにやさしいカーブに包まれ、美しい魅力を生み出していたが、低い車高が乗降のスムーズさをスポイルしているのが残念だった。
その美しさと斬新な割り切りが評価されたのか、その年の日本カーオブザイヤーの1位はシルビア、2位マークⅡ3兄弟で、ペルソナは三番で入賞を果たした。が、その美しい姿も一般受けせず、エアコンの普及で運転中に窓を開けなくなったのと相まって、暫くすると市場から姿を消し、今では思い出せる人もほとんどいない。
仮面舞踏会のマスクのような七宝焼きでゴージャス感の高いエンブレムも、今では懐かしい想い出。
そんな88年は、大韓航空機爆破テロ犯人で逮捕された蜂谷真由美が日本人ではなく、実は金賢姫(キム・ヒョンヒ)という名の北朝鮮工作員で、彼女に日本語を教えた恩恵(ウネ)が拉致された日本人だったと判明した。
これが今にまで延々と続き、解決しない拉致事件の原点だったのである。