【車屋四六】ツーペダルと呼んだ頃 ~AT~

コラム・特集 車屋四六

昭和8年生まれ、今年で75才。

この年になると、毎年クラス会名簿の行数が減っていく。去年酒を飲んだ奴が、今年は居ないのだ。昔、若者と思っていた連中も、久しぶりに会えば定年退職したという。

そんな定年退職した後輩の一人だが、未だにマニュアルミッションを楽しそうに乗り回している奴が居る。彼は、若い頃にスカイラインGT-Bに出会って以来、一度も浮気をしたことが無く、数十年来、クラッチを踏み踏み、スカイラインに乗って、シフトをやり続けている。

「頑固もいい加減にしたら」と云っても「マニュアルじゃなきゃ面白くない」と云い張るのである。

一方、私は、ATが未だ不具合だった頃から、ATの愛好者だった。理由は単純で、単なる横着。クラッチを踏むのが面倒なだけなのである。でも、ジムカーナやレースも若い頃にはやったから、クラッチ操作、シフト操作が下手なわけではない。

大分前から、日本製乗用車の大半はATで、AT限定の運転免許だってある。嬉しい世の中になったものである。世界で最初にATが普及したのはアメリカで、1960年前後からと記憶する。

それでは2番目。実は日本で、ATが当たり前になってきたのは、80年代からだろう。(写真トップ:日米を問わず、普及前にはATのバッジが誇らしげに付いていた)

自動車誕生の地なのに、ヨーロッパでは未だにマニュアルが好まれている。理由は、ケチ。AT車の販売価格が同等、燃費も同等になれば飛びつくはずだ。

日本市場にATが上陸したのは50年代。輸入された米国製高級車のキャデラックやリンカーン、クライスラーなどの一部から、クラッチが消えはじめたものだった。

当時、この手の高級車は、大企業の重役か大臣高級官僚、そして裕福なオーナードライバー御用達だった。が、お抱え運転手と呼んだ連中は、初めの頃は動きがスムーズでないと云ってATを嫌がった。当時の職業運転手は、発進、加速、シフト、減速、停止、全てが連続する滑らかさを自慢し、全部任せきりのATを嫌ったのだ。

だから、日本でATを使い始めたのは、ヤミ成金や自営業などの、高価なAT車を買える、裕福なオーナードライバー達だった。

やがてAT=オートマチック車が、ガソリン屋や修理工場で人目に触れるようになると、いつしか「ノークラッチ」と呼ぶようになり、更にノークラと短縮して呼ぶようになる。

アメ車のAT車比率が増えてしまうと、お抱え運転手も逃げ回るわけにもいかず、ノークラの運転に慣れはじめた。当時、日本の自動車産業は米国の後追いだったから、日本車のオーナー達も、徐々にATを欲しがるようになる。ということで、60年代に入ると日本車にもAT車が登場する。

52年型キャデラック。官庁ナンバーでないから、持ち主は大企業の役員か、ヤミ成金か

トルクコンバーターを内蔵した、本格的ATの日本初搭載はクラウンで60年。商品名をトヨグライドと名乗った。そしてパブリカに62年、コロナに63年に搭載された。

日産は、ライバルのトヨタよりATでは遅れをとった。セドリック搭載が64年、ブルーバードが66年だったが、こちらは世界の主流BW社と提携した三速型ATで、シボレーのパワーグライド型と同系のトヨタの二速型より明らかに高性能だった。

これを機に他社にもATが登場するが、数が増えるにつれて新しい呼び方が生まれた。

60年代になると「ツーペダル」と呼ぶようになる。我々には悪い習慣があって、カタカナを使いたがる癖がある。カタカナを使うことで外国語のような気になり、ハイカラと錯覚するのだろう。で、外国人が聞いても判らない、数々のカタカナ英語を創作し続けている。

いずれにしても50年代はノークラで、60年代にはツーペダルと呼ぶように変化した。60年は昭和35年、その後の日本市場での急速な発展普及ぶりは、皆様ご存じの通り。普及が進むに連れて気にしなくなると、いつの間にかオートマチック、オートマ、ATと呼ぶのが当たり前になった。

最近ではノークラも、ツーペダルも死語になってしまった。

初代クラウン。花巻温泉で撮影