戦争が終わって5年、1950年頃のアメリカは、戦前の姿の車から、戦後開発のニューモデルへの交代時期だった。その頃からの20年間が、アメ車が大きく豪華に変貌する時期となる。
WWIIで国土無傷のアメリカには世界の富が集まったようで、あらゆる商品が世界一の金持ち国にふさわしく豪華贅沢に光り輝いていた。
50年代アメリカ車の傾向は、速さを象徴するジェット戦闘機をモチーフにしたものが多く、その先鞭をつけたのが49年にフルモデルチェンジしたフォードで、ジェットの吸気孔をモチーフにしたラジェーターグリルが斬新で話題になった。スチュードベイカーも吸気孔イメージの踏襲だったが、レイモンド・ローウイーデザインのプロポーションは、前か後ろか判らないと話題になったものである。
が、その後、猫も杓子も採用したのがテイルフィン。飛行機の尾翼のイメージだが、最初がキャデラックだったと記憶する。たしか49年型だが、このフィンのイメージは双発レシプロエンジンのロッキードP38戦闘機だった。
キャデラックのフィンが最大に成長するのが58年型で、その後徐々に縮小していった。もちろん他車、他社それぞれのアイディアで、形は違えど大きく発達したのである。
写真のシボレーは、フィン付になってからのモデルチェンジの三回目だが、新しいアイディアが出尽くしたのか、とうとう尾翼が寝てしまった。(写真右:50年代に入るとアメ車は年々大型・大馬力化の競争になり、写真の59年型シボレーでは全幅が2mを越え、変形したテイルフィンはかくのごとく羽を広げてしまった。)
写真は最上級モデルのベルエアシリーズのツードアクーペで、V8OHVエンジンは4641ccで185馬力。大衆車なのに馬鹿でかく成長しているが、こいつの黒いフォードアセダンには、苦い思い出が付きまとう。
当時シボレーには最上級ベルエア、そしてインパラ、下位モデルがビスケイン。直列6気筒OHVで3854cc、135馬力。大きく成長したサイズは、全長5357㎜、全幅2030㎜、ホイールベース3022㎜は、とてもじゃないが大衆車というような寸法ではなかった。
が、馬鹿でかいが、アメリカでの販売価格は2500ドル。当時の為替レートが360円だから、邦貨換算で90万円はやはり大衆車価格である。もっとも、日本でとなると変わってくる。これまで何度も書いてきたように、当時の日本では駐留軍か外交官などが二年間使ってからが日本市場での新車だから、大衆車のシボレーといえども、300万円前後という値段で取引された。
61年頃だったと思うが、茅場町で経営のガソリンスタンドに、黒の59年型シボレーがやってきた。近くに引っ越してきたからツケでガソリンを入れたいということだった。
ツケというのは日本古来のもので、今でも続いている習慣。交渉に来た部長は態度が鷹揚で、それほど値切りもせずいい客だと思い、口座を作った。
契約どおり一ヶ月が経ち請求書を送付。さらに一ヵ月後に集金に行った経理の女性が「新会社はまだ落ち着かないので日本政府の手形で支払います」というので貰ってきた。
うかつだった・・・その時ちょっと目を通せばよかったのに、目を通さずに月末集金の手形をまとめて、取引先の三井銀行日本橋支店に預けて取り立て依頼をした。それから三ヶ月が経った頃、銀行から「手形が不渡りです」と連絡が来た。日本政府の手形が、何故?と不審だった。
「馬鹿だねぇ政府が手形など振り出すはずがないじゃないか」。日銀に就職した仲間から笑われてしまった。銀行から返ってきた約束手形をよく見たら、日本政府ではなくて”日本セイフ”と書いてあった。
そのからくりは、取引先の××商事は、商品納入先の日本セイフという会社からの受取手形を、××商事が当社への支払いに当てて、数ヶ月ほどで倒産するという、取り込み詐欺であった。警察の説明では、両社グルだったとのこと。
結局、私のカブトオートセンターは、ガソリン代金と整備代金の、受取手形と未集金分を合わせて、五か月分ほどがパーになったという、若い経営者の間抜けな物語であった。