東西分断で悲劇の舞台になったベルリンの壁に群衆がよじ登り、嬉々としてハンマーを振り、壁を壊すTV映像は世界を驚かせた。
1961年ソ連占領地域がやおら有刺鉄線で囲まれ、コンクリート壁になり、それが壊されて念願の統一ドイツ誕生が1990年だった。
その壁の西独側は落書きが一杯だったが、私が訪問した66年には落書きはなく、ブランデンブルク門前に壁はなかった。
生粋のベルリン子オースト・ヘルグートと銀座でカルビを焼きビール飲んでいた。オーストは何故か好物の焼き肉をチニーズと呼ぶ…どうやら中国料理と混同しているようだ。
彼はベルリンオペラの首席トロンボーン奏者でドイツでは音楽学校の教授、来日すると私と飲み歩くのを楽しみにしていたようだ。
その日も、彼とチェロのクルト・バウアー教授と一緒だった。
彼等は私のことをファウベーと呼ぶ。初対面の頃、私の愛車がVWだったのだ。ドイツ語でV=ファウ、W=べーと発声する。
「ファウベー明日は何処で飲む」「残念だが明日ヨーロッパに出発する…」「ドイツには来るのか」「ハンブルグとミュンヘンに」「何故ベルリンに来ない」、でベルリン訪問となった。
ベルリンのテーゲル空港からタクシーでホテル・リュッツォーへ。
ホテルは上品なマダムが主人のプチホテル…爆撃には合わなかったようでクラシックな部屋丁度が素晴らしく、ロンドンに住む元JALパーサーの宮崎大二郎の推薦だった。
早速電話をしてホテル名を告げると「よく見つけた其処はウチの近くだ」と不思議がるが偶然で、5分もすると杖を突き足を引きずり気味にやってきた。彼の右足が義足なのはWWⅡでの名誉の負傷だったようだが、戦争の話しはしたがらなかった。
せっかくだからベルリン見物をと翌朝オペルでやってきた。当時のオペルは敗戦から立ち直りVWのライバル大衆車カデット、中級レコルト➚カピタン、高級ディプロマットという陣容だった。
レコルトクーペの助手席で彼は義足のはず、と気が付いたら、コラムから突きだした棒の先のグリップがアクセル、レバーを握るとブレーキ…身障者用特注部品を右手で操作、健全な左足でクラッチ、右手でフロアシフトをと、見事な連係プレイで案内してくれた。
レコルトは全長4512㎜・直四OHV1680cc・67馬力で最高速度164kmという性能だった。クーペだが後席のゆとりが意外だった。
新発見は、ヒトラーの数少ない良き遺産と云われるアウトバーンの一部に擂り鉢状の部分があり、ナチ時代のレース中、此処で高速Uターンしてアウトバーに戻るのだとのことで、其処には見物客用の大きなスタンドも残っていた。
その晩、ベルリン名物のアイスバインを御馳走になったが、大きすぎて食べきれず、ドイツ人の食べる量に改めて感心したが、日本で沢山御馳走したつもりの肉や焼き鳥、あれは少なかったのだろうと反省した。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。