【車屋四六】織機とバイクと四輪車

コラム・特集 車屋四六

鈴木修会長の独特な経営で軽市場の王者になったスズキは、日本メーカーの中でいち早く海外市場に目を付け進出した。そんなスズキの源流は、トヨタと同様、織機製造の大メーカーだった。

創業者鈴木道雄は、1885年=明治20年、浜松生まれの農家の長男。14才で大工に弟子入り。身につけた技術で造った織機(しょっき)を母親にプレゼント、という孝行物語は豊田佐吉と同じである。

当時浜松近在の女性は布を織り家計を助けるのが習慣だが、昼の農作業、掃除洗濯食事など家事が終わった後、疲れた体で布を織る母の姿、子供心に楽をさせたいという夢の実現だったのである。

道夫の織機は高能率で、それまでの何倍も布を織る。評判を聞いた近在からの注文続出で、織機製作所発足が1909年。事業は順調に発展、20年=大正9年に株式会社に。

会社は順調に発展して世界的織機メーカーになると道雄は「うちの織機の寿命は半永久的だからいずれ売り先が無くなる・更に発展するには消耗品の製造が必要」と云って目を付けたのが自動車。

で、大卒初任給が70円の頃に大枚4000円で購入したのが、世界的ベストセラーのオースチンセブン。それを参考に自動車試作に成功したのが36年=昭和11年のことだった。

が、支那事変勃発、近づくWWⅡで軍需品優先になり、自動車製造に漕ぎ着け無かったのは、返すがえすも残念なことだった。

さてWWⅡは45年終戦。51年頃、後に二代目社長の鈴木俊三常務は、大好きな釣りの帰り道、自転車を漕ぎながら、ふと自転車にエンジンを付けたら楽だろうと。もちろん楽というのは、釣り場の往復という意味である。

戦前に自動車開発の経験もあり、早速試作完成したのは、30cc2サイクル0.2馬力を補助エンジンにしたアトム号。(写真右:遠州名物空っ風対策で生まれた魚釣り場往復便のアトム号)

アトム号は走ってみると快調、で市販決定。遠州自慢?の空っ風に立ち向かうには、と36ccに強化して、パワーフリー号の名で売り出したのが52年=昭和27年。

パワーフリーの評判は良く、53年60ccにパワーアップしたダイヤモンドフリー号と交代して市場から去った。このダイヤモンドフリー号は孝行者、売れ行き好調で品不足になり、結果は、重荷の銀行借入金の短期返済を果たすことになる。

アトム号から発展し量産目的で開発のパワーフリー号

そして登場する三代目コレダ号。よく見ると足踏みペダルが消えた完全なオートバイ=二輪自動車、いわゆるバイクの誕生である。コレダ号も評判が良く、気をよくした鈴木は車名を鈴木織機から、鈴木自動車へと改めたのが54年=昭和29年だった。

日本の乗用車造りが世界のレベルの追いついたと云われたクラウン登場が55年、鈴木からはスズライトSSセダンが登場する。これが後に軽業界トップに君臨する、スズキの第一歩だった。

スズライトは、独ロイトLP400から四輪車造りを学習して、開発完成したものである。以後のスズキは二輪では世界のスズキに、四輪では軽の王者に、そして登録車でも世界のスズキを目指している。

いずれにしても、織機から二輪で発展する原点が自転車用補助エンジン開発。そしてアトム号誕生。更に52年パワーフリー号誕生の頃の日本はヘルシンキオリンピックに参加復帰、白井義男フライ級世界チャンピオンで、暗いムードが明るくなったのを憶えている。

スズキが補助エンジン付き自動車屋から本格的二輪メーカへの第一歩となった記念すべきコレダ号