さて創業者Aオペルは、優れた技術者であると同時に、経営も商才も優れた人物だった。ミシンでは蒸気エンジンで稼働する最新工場で量産体制を敷き、欧州ナンバーワンを確立する。
次の自転車では、それまでの自転車の画期的改良で、誰でも乗りやすい実用化を果たし、加えて高品質、そしてレースで勝ち星を重ねれば売れぬわけもなく、たちまち欧州ナンバーワンに。
それまでの自転車は、大きな前輪と小さな後輪、高いサドルに座るには踏み台が必要、馬鹿でかい車輪直結のハンドルを握り、中心のペダルを漕ぐという、サーカスもどきの運転が必要だった。
息子達がそんな自転車で転び怪我をするのを見たオペルは、それまでの常識を捨て、前後輪を同じ大きさに、後輪をチェーンで駆動する構造を考案…今の自転車の原型完成だった。
これで自転車は安全で転ばず、女も乗れる乗り物になり、1890年発売すると人気者になるが、後追いが続々で市場は供給過剰に。そんな市場の先行きを危ぶみ、目を付けたのが自動車だった。
前回紹介したように、小さな町工場製ルッツマンを特許ごと買い取ったが、市場には既にベンツやダイムラー、プジョーやパナールルバッソールなど高性能車が活躍しているので、時代遅れのルッツマンでは太刀打ちできないのも道理だった。
で、65台で製造中止。斬新機構の仏ダラックの特許を買い、1902年に発売したのが、単気筒1100cc・9馬力/1600回転・最高速度45粁という、オペルダラックだった。(トップ写真:旧弊ルッツマンに見切りを付け新規購入の特許で開発したオペルダラック。前エンジン+後輪駆動+丸ハンドルは現在の車の型式と同じである)
ダラックは丸型ハンドルでコラムシフト3MT。FR型式は現在の機構と同じ。発売後しばらくすると水冷二気筒1884cc12馬力に。03年には14馬力にパワーアップする。
更に四気筒を追加し、発売から数年間で、7種類のシャシーに、最大7ℓエンジンまでという品揃えで完成する。で順調に発展して、10年後には、ドイツ最大メーカーになっていた。
その頃活躍した人気車種がドクトルワーゲン。医者が田舎の細道往診が楽なよう小回り特性が開発目標の二座席型で、優れた経済性と頑丈さで、一般向けとしても大成功を収めた。
が、成功の後に不幸が訪れる。WWⅠ開戦→そして敗戦。WWⅡ後のレコルド成功同様、WWⅠ後オペルを立て直したのが、緑のボディが雨蛙そっくりで付いた名のラウプフロッシュ。オペルは戦前の高級大型より、戦後は小型有利と決意したのである。
順調な自動車発展でオペルは長年のミシン製造に終始を打つ決心をするが、既に100万台を出荷していた。もう一つ、自転車の大メーカーらしく、オペルはオートバイメーカーとしても活躍した。