【車屋四六】野中重雄の英車遍歴
もし貴方が、野中重雄を知っていたとしたら、かなりな年配か、映画ツーである。 彼に初めて会ったのは、1957年頃だった。(写真トップ:野中先輩と筆者、昭和35年頃の夏カブトオートセンターで) 現在、昭和通りに面した東銀座八 […]
続きを読むもし貴方が、野中重雄を知っていたとしたら、かなりな年配か、映画ツーである。 彼に初めて会ったのは、1957年頃だった。(写真トップ:野中先輩と筆者、昭和35年頃の夏カブトオートセンターで) 現在、昭和通りに面した東銀座八 […]
続きを読む「掘り出し物だ!安いよ」 突然電話をくれたのは、芝赤坂界隈にたむろする猪俣さんだった。 昭和30年代、日本の経済は朝鮮戦争の特需景気で少し上向いてはいたが、敗戦の後遺症はまだまだで、貧乏から抜け出せないでいた。 当然、政 […]
続きを読む「何時から自動車評論家になったの」 「何故、物書きになったの」 耳にタコができるほど聞かされた質問である。 私自身は、評論家とは思っていない。 評論家とは、私の知識見識のレベルで勤まるほど簡単なものではないからだ。単に、 […]
続きを読む昔「ベストドライバーコンテスト」と呼ぶイベントがあった。全部云うと面倒なので、ベスドラで通用するようになるこのイベントは、鈴鹿サーキットで日本グランプリが始まる2年前の1962年に始まり、それから10年後の71年まで毎年 […]
続きを読む昭和8年生まれ、今年で75才。 この年になると、毎年クラス会名簿の行数が減っていく。去年酒を飲んだ奴が、今年は居ないのだ。昔、若者と思っていた連中も、久しぶりに会えば定年退職したという。 そんな定年退職した後輩の一人だが […]
続きを読む初代ミラージュが誕生したのは78年で、83年に二代目にバトンタッチした。そして三代目へと順調に進化が進んだのは、国鉄が114年の歴史を閉じて民営化、JRが誕生した87年だった。 当時の日本は、バブルが絶頂期に達する寸前ら […]
続きを読む代名詞というものがある。日本の車関連では、太平洋戦争を挟んで、小型車の代名詞は「ダットサン」だった。昭和20年代はスクーターが走って来れば「ラビット」だった。世界中に軽飛行機メーカーが沢山あるのに、日本では「セスナ墜落」 […]
続きを読むドイツのランゲンブルグ領主が集めた自動車博物館に行った時、撮った写真を紹介しよう。 やたら記憶力のいい人だったら、何処かで見たことが、と思うかもしれない。そう、三菱初の乗用車「三菱500」に似ているからである。 それもそ […]
続きを読む1982年に、ダイムラーベンツから突然コンパクトカーが登場して、世界中に大きな波紋が広がった。 登場したコンパクトカーの名は「190シリーズ」だった。それまでのベンツの印象といえば、高級な大型車専門メーカー。そんな会社が […]
続きを読む(2023年2月13日・記事の一部誤りを修正しました) 東京国際空港が羽田から成田に移った頃、日本中がインベーダーゲームに夢中だった。 その頃、日本の乗用車保有台数は2000万台の大台に乗り、自動車輸入関税が遂にゼロにな […]
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