片山豊よもやま話-9
終戦直後から日本ではあらゆる分野で米国至上偏重が続いていた。で、1959/昭和34年、運輸省が自動車販売整備に関する視察団を編成渡米した。そこで全米自動車販売協会=NADAとアメリカン・オートモビル・アソシエーション=A […]
続きを読む終戦直後から日本ではあらゆる分野で米国至上偏重が続いていた。で、1959/昭和34年、運輸省が自動車販売整備に関する視察団を編成渡米した。そこで全米自動車販売協会=NADAとアメリカン・オートモビル・アソシエーション=A […]
続きを読むさて、オトッツァンとは切っても切れない縁の佐藤健司、通称ケン坊との出会いがいつかは聞いてないが「慶応の文化祭にダットサンを貸せと高校生のケン坊が来たんだよ」といっていた。 また進駐軍の将校や裕福シビリアン達が、自動車クラ […]
続きを読む片山豊ことオトッツァンは「自動車屋は儲からなくてもいい、スポーツカーが必要」という。そのスポーツカーとは、高性能不要、贅沢不要、走る楽しさが味わえれば良いという。 前回紹介の第1回全日本自動車ショー出展のダットサン・スポ […]
続きを読む前回紹介のフライングフェザーは、日産を愛するがゆえの社外脱線作業だったが、オトッツァンのアイディアは更に発展、それは日本自動車産業全体の発展につながった。 「各社水面下でいがみ合っていてもしようがない、足並み揃えて前進し […]
続きを読む日産に復職した片山豊=オトッツァンは、生産再開したダットサンの戦前型復刻型の時代遅れの姿が気にくわなかった。で、発動機再生工場で働く佐藤章蔵に目をとめ、戦前日産在籍の富谷龍一を呼び、カーデザインとクレイモデル製作技術を学 […]
続きを読む昭和20年/1945年8月15日正午、ラジオの天皇陛下の玉音(ぎょくおん)放送で、神国日本の敗戦を知った。そのときは未だ天皇は神様だから、その声は玉音。が、翌年正月に人間宣言をしたので、昭和21年正月で天皇は神から人にな […]
続きを読む私昭和8年生まれ、子供の頃食べ物は魚も野菜も天然自然、大好きな菓子もチョコレートも豊富、世間はノンビリと思っていたが、実は帝国軍隊の力が増し戦争が近づいていた。 軍部は、開戦すれば輸入がストップすると自動車の国産化を奨励 […]
続きを読む片山豊は、明治42年/1909年に静岡に生まれ、三井銀行勤務の父と共に移住した台湾でマラリアにかかり、埼玉県大地主の祖父に預けられ育った。その祖父は好奇心旺盛、新しもの好きだったようで、その影響か豊は物心つく頃には自動車 […]
続きを読む片山豊こと我々のオトッツァンは、入社から死ぬまで、日産を愛し続けた人だった。歴代社長、重役は業績向上には熱心だったろうが、日産を愛することではオトッツァンにはかなわないはず。 なのに、数々の功績を上げる片山に日産の経営陣 […]
続きを読むカー&レジャーwebサイトで度々登場する片山豊…その取り巻き連中は「オトッツァン」と呼び勝手に子分と決めている。その子分の筆頭は佐藤健司=通称ケン坊。慶応自動車部戦後の後輩と戦前の大先輩、誰が見ても生涯親分子分と […]
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