片山豊よもやま話-4

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昭和20年/1945年8月15日正午、ラジオの天皇陛下の玉音(ぎょくおん)放送で、神国日本の敗戦を知った。そのときは未だ天皇は神様だから、その声は玉音。が、翌年正月に人間宣言をしたので、昭和21年正月で天皇は神から人になったのである。

ちなみに玉音放送は、一般国民が始めて聞く天皇の声だったが、ピーピーガーガー雑音で何を言っているか判らなかった。近頃流れるハッキリとした玉音は、コンピュータ処理したものである。

ソ連の対日宣戦布告は9月の予定だったらしいが、連合軍として参加したヤルタ会談で原爆投下を知ったスターリンは、領土拡張計画に間に合わなくなると、陸軍が無理というのにドイツ駐屯の部隊装備を急遽シベリア鉄道で東部に移動させ、8月8日宣戦布告して、満州と北方領土に侵攻したのだ。

で、僅か8日ほどの戦いで(といっても終戦直前だから無抵抗に近かったらしいが)、樺太と千島列島を含む北方領土を手中に収めたのである。

実際には、ソ連の欲はもっと深く、ドイツが東西に分割されたように、盛岡あたりから北を要求したと聞くが、そろそろ共産主義の警戒を始めた米国と中華民国蒋介石総統の反対でソ連の要求は実現しなかったのだという…もし実現していれば、東ドイツと西ドイツ、北朝鮮と韓国の日本版ということになっていたかも。

で、満州自動車は戦勝国ソ連に分捕られ、本国日産自動車はGHQの管理下に…で、失職した片山さんは、旧日産財閥系の日立造船に転職。日産自動車の46年トラック生産再開で、47年に総務部宣伝課長で復職する。

さて財閥の総帥鮎川義助は、軍部協力を理由に戦犯となり巣鴨拘置所に投獄され、釈放されると追い打ちを掛けるように公職追放処分になり、会社復帰はかなわなかった。一方、指揮官を失い混沌とする日産自動車に、財務担当で日本興業銀行から派遣されたのが川又克二…後のワンマンと呼ばれた川又社長である。

ダットサンDA型/1947年の試作品:戦前型ベースだが戦前の剣道の面状グリルのプレス型が見つからずに新作し少量市販/アポロ型方向指示器が懐かしい。
戦前のグリル・プレス型を発見して取り付けたダットサンDA型:両サイドにステップなく後部ルーフに丸味を持たせて米車風流線型を意識努力している。

日産は47年に待望の乗用車生産も再開し、49年日産自動車になる。そんな頃の48年、フォードと契約した伊カロッツェリア界の巨匠ピニン・ファリナが、アジア経由で訪米途中に日本に寄るのを察知した片山さんは、他社が気づかぬ前にと羽田に出迎え帝国ホテルに。で、工場を案内したのが縁で、ブルーバード410のデザイン契約を成立させる。

ダットサン410型/1963年:レースで活躍するほど性能は良かったがスタイリングが日本ユーザーに受け入れられなかった/スペース効率重視のファリナデザインを日本で修整したのが原因か。

が、背が高く広い室内を確保した410の、ファリナの合理的レイアウトは不評だった…姿が時期尚早と云われたが、晩年ゴルフ仲間の難波靖治は「当時の流行に合わせ勝手に後部を下げたりで中途半端に角が取れた姿になり不評原因はそれ」と云っていた。

 

難波さんは実験部のボスで、ダットサン210型で豪州ラリーに優勝、ブルーバード510型で日産念願のサファリ優勝を勝ち取った名監督として知られる人物である。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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