通称グリーンパネルと呼んだマツダGA型三輪貨物自動車が誕生したのは昭和13年/1938年。この車のヒットでWWⅡ前、三輪メーカーマツダの地位が確立したと云っても過言では無かろう。
軍主導の合併で誕生した、終戦前オート三輪御三家とは、ダイハツと日本内燃機、そしてマツダだった。
そもそもコルク生産目的で、1920年/大正9年創業の東洋コルク工業がマツダのルーツ。コルクから機械製造を目指して東洋工業と社名変更したのが1930年で、35年発売の削岩機ではトップメーカーになり、市場占有率44%に達した。
一方、32年に始まる3輪車は、進化しながら登場したGC型が発売すると評判もよく、2063台を売上げ、なんと125台を輸出している。が、やがて太平洋戦争へと発展する支那事変が始まり、日本の将来は一歩一歩暗闇に向かっていた。

その頃、国家総動員法が可決された。こいつは「戦争中政府は勝手し放題」という都合の良い法律で、企業も国民も嫌応なく従わなければならぬ義務を負うというものである。
で、マツダも陸軍共同管理指定となり、まず三八式歩兵銃月産2000挺、そして新式九九式歩兵銃月産1万2000挺と、完全に軍需産業化して、自動車造りなどしている場合ではなくなった。
その前、三輪車順調時代の37年、次の課題として乗用車生産を目指して、当時一世風靡の大衆車オースチンセブン770ccを購入、さらに38年にはオペル1100ccを輸入、研究を始めていたが軍の管理下に入り、乗用車開発、生産はご破算になってしまった。
やがて敗戦。復興の波に乗った三輪車でマツダは息を吹き返すが、その後の発展は御存知の通りである。
余談になるが、国家総動員法の結果は、あちらこちらに飛び火した。例えば、国民は代用品を使うべしとして、靴を除き革製品生産販売禁止となり、その被害をまともに受けたのは運動選手だった。
また、小、中、女学校生徒には下駄履き通学が奨励され、被服や学用品などは代用品を使うよう奨励された。また白米禁止、入れ歯は陶器でというように、あらゆる分野で代用品が登場した。
いっぽう、東京オリンピックの中止宣言には国民全体が落胆したが、朗報もあった。62時間22分49秒、1万1601㎞を飛び続けて、航研機が無着陸飛行世界記録を樹立したことだった。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。