ドイツで生まれフランスが育てたと云う自動車は、少し遅れて米国でも走り出していた。そのベテラン時代=1904年迄を紐解くと、1840年頃フィッシャーの蒸気車が走り、内燃機関では1891年に、オハイオのランバートが三輪自動車を、ペンシルバニアのネーディックが1気筒8馬力で四輪自動車を、これが元祖のようだ。
さてその後、進化する自動車が100km/hをマークすると、次の目標は100mph/160㎞突破で、驚異的蒸気車も登場するが、それは後にする。先ず100mphの壁を破ったのは、1904年ブリリエのリゴリー四気筒3.5ℓ車だった。
我々の印象で蒸気車と云うと米国というのは、1930年代にも堂々と走っていたのを知っているからだ。が、蒸気車を実用域に仕上げたのは仏人セルポレ…チューブ型ボイラーを開発し、数分でコールドスタート可能・燃料と水の制御がアクセルで可能になったからだ。
彼の蒸気車は驚異的速度で走り、プジョーが惚れ込んで三輪車を、ダイムラーまでがメルセデス・セルポレを造ったが、セルポレ当人の早逝で、フランスの蒸気車は死んでしまった。
が、米国では順調に育ち、ホワイト、スタンリー、ロコモービルなどが知られるが、功績的には双子のスタンリーが第一人者と認識されているようだ。ちなみにスタンリーは、コダックの写真乾板を作るスタンリー・ドライプレート会社+特許を売った資金で、自動車製造に転向したというのが経歴。
1897年、スタンリーは時速45km/hの一号車を完成、年内に200台も売れるほど好評だったが、その特許を25万ドルで買ったのがロコモビルで、米国の乗用車保有台数が8000台という時に、4000台がロコモビルというほどに売れたが、数年で破産した。
1908年、スタンリーは新型8馬力車を発表したが、オプションの10馬力、20馬力車の性能は驚異的で、デイトナビーチで出した記録は204.25km/h、ガソリン車くそ食らへという速さだった。

調子に乗った運転手マリオットは、更に記録更新を目指したが、250km/hに達した頃シャシーが分解したのは、馬力上昇にシャシーが耐えられなかったのだ。スタンリー社は、WWⅠ終了後も健在で、1927年迄、蒸気自動車を作り続けた。
速いのはスタンリーだが、品質ではホワイト…1901年登場のホワイトは、仕上げの良さで勝負。スタンリー750ドルに対し2000ドルで、水満タン走行距離がスタンリーの80㎞に対して、ホワイトは倍以上という差も有利だった。
ホワイトの前身は、ホワイト・ソーイングマシーン社だから、乾板屋よりミシン屋のほうが機械造りは上手だったのだろう。
1905年のスタンリー二気筒1.5馬力/2500ドルは、高級高性能120km/h、それが気に入ったようで、セオドア・ルーズベルト大統領がホワイトハウスで愛用していたという。

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。