【車屋四六】神国日本の初空襲

コラム・特集 車屋四六

B25で飛んだ話しを紹介しよう。正式名称はノースアメリカンB25ミッチェル。ミッチェルは、30年代の名将軍ウイリアムBミッチェルにちなんだもの。
ノースアメリカン社製爆撃機で、B=爆撃機、25は米軍の型式。(WWⅡのボーイングB17、B29は有名長距離爆撃機)

B25は、車でロスから2時間ほどのチノ市にある、航空博物館(電話909-597-3722)で体験飛行が出来る。B25の他に、P38などの戦闘機や、B17爆撃機で飛ぶことも出来る。

もちろん私も乗った。わずか20分ほどの飛行でも、パイロットの私は天にも昇る心地だった。が、嬉しいのとは裏腹に、WWⅡ体験者にB25は恨み骨髄、嫌な思い出が甦る爆撃機でもある。

時は昭和17年/42年4月18日、連戦連勝に湧く日本に、いきなり初空襲を敢行したのがB25だったから。当日飛来したのは16機。日本軍が思いもつかぬ奇想天外な奇襲だった。

それは1300㎞東の空母ホーネットから飛来した。その様子を、スペンサー・トレイシー主演のMGM製作映画45年作{東京上空30秒}を見たが、15トンもの双発陸上爆撃機を短かな飛行甲板から離陸させる技術確立に苦労していた。

奇襲攻撃の提案企画、離艦技術完成、空襲実行と全ての指揮を取ったのは、30年代世界速度記録で有名なドーリットル中佐だった。
中佐率いる16機から分かれた13機が到着した東京は、ちょうど昼めし時だった。

下町から品川、蒲田、早稲田、川崎、横須賀などに投弾するも被害は僅少。が、荒川で宣伝ビラと勘違いの子供が駆け寄り、焼夷弾の直撃で数人が死んだ。
別動の2機は名古屋へ、もう1機が神戸を空襲したあと、東支那海へ脱出、中国の米軍基地に向かうが、燃料切れの1機が日本軍占領地域に不時着して捕虜になった。

B25のプロトタイプは、38年に完成。41年から終戦までに1万1000機も造られた名物爆撃機でもあった。

ヨーロッパ戦線が主戦場で、英軍やソ連軍にも貸与されて、ドイツ爆撃に活躍した。
とにかく有名だったから、ジョン・ウエイン主演“太平洋戦争”/チャールトン・ヘストン主演“ミッドウエイ”/スティーブ・マックイン主演“戦う翼”など、多くの戦争映画に登場している。
もう終わりと思ったら、最近、B25のテストパイロットが冷凍保存され30年後に蘇生するという、B25主演映画があると聞かされたが、残念ながら題名が判らない。

B25の東京空襲は、連日の負け戦報道にうんざりの、アメリカ国民向け戦意高揚目的だった。もちろん効果てきめん、アメリカ全土で喝采を浴びたが、一撃を食らった日本も「コン畜生」と戦意高揚するという逆効果も生み出した。

 

が、この空襲で危機感を持ったのが名将山本五十六連合艦隊司令長官だった。で、ミッドウエイ海戦を企画実行するが、帝国海軍は大敗する。原因は、暗号解読である。
米国は高度な暗号解読機を開発して真珠湾攻撃さえ事前に知っていたという。当然ミドウエイ海戦の日本軍情報は米艦隊に筒抜け。加えて実用化したレーダー。で、空母6隻の大艦隊が空母3隻の米艦隊に完敗。日本は空母6隻沈没、米軍空母沈没は1隻で、日本有利の太平洋戦争は、これを転機に米軍有利に逆転するのである。