【車屋四六】続ミニ

コラム・特集 車屋四六

今でこそ、前輪駆動=FWDは珍しい仕掛けではないが、ミニが生まれた頃はマイノリティーというよりは、シトロエン、DKW、サーブなどと共に、変わり種の一言で片づけられる車だった。

もっともシトロエンは「車は押すよりは曳く方が合理的」の持論でFWDだが、イシゴニスの目的は異なり、床下のプロペラシャフトとデフが無くなれば、フラットフロア化で居住空間が広く軽量化が達成できるとの魂胆。

またオーバーハングを嫌って四隅一杯に置いたタイヤは小径の10インチ。当時このサイズは市販品になく、ダンロップが開発するはめになった。大オースチン社の要望では断れなかったのだろう。

が、この小径アイディアが馬脚を現した。ホイールストロークが短く悪路では操安性が損なわれ、乗り心地も最悪だった。が、そんなことでへこたれるイシゴニスではなかった。

金属スプリングで駄目なら別の手で、とゴムのラバーコーンサスペンションを開発。内部に液体を充填し、四輪をパイプで繋いで連動するという優れものだが、暫くして金属型に、また12インチタイヤになってしまったのは惜しまれた。

エンジンはOHV848㏄、SUキャブ二連装で34hp/5000rpmだが、67年に1Lに進化、スライド式ウインドーが巻き上げ式に、ドアヒンジが内蔵されて外から見えなくなった。

日本の軽自動車より劣る出力だが、トルクピークを2600回転という低さで稼ぐ使い勝手の良さで、馬鹿に出来ない乗り味を持った車に仕立てられていた。

ローバージャパンが輸入していた90年代に乗った時には、既にシーラカンス。乗り味は古典的、重いハンドルをトラックのように抱えて元気に走ると、懐かしいキックバックに見舞われる。アクセルを踏めばトルクステアが顔を出し、閉めればタックイン。快適とは程遠かったが懐かしさでは充分に楽しめたものである。

当時は42馬力だったが、幾らムチを入れたところで韋駄天走りなど蚊帳の外、が、上手なシフトで42馬力をこなせば、コーナーでは少ないロールと相まってキビキビとした走りも楽しめた。

ローバージャパン輸入のミニクーパー1300は61馬力で、こいつはかなりな走りをしたが、年を取った身には疲れる車だった。

90年代ローバージャパンが輸入していた頃のミニ・メイフェアー。大磯プリンスの駐車場で

ミニクーパーと云えば私は漫画家の佃公彦を想い出す。鈴鹿や船橋を元気に走り回る姿が記憶に残る。一方、ミニは世界の檜舞台でも立役者で、モンテカルロラリーの優勝をはじめ、ビッグタイトルを総なめにしている。

ミニは世界中に愛され、各国でワンメイクレースが開かれたほど輸出され外貨も稼いだ。で、喜んだ女王様はイシゴニスにナイトの称号を授けた。

車が便利に楽に安全に走るようになった90年代になると、走らなくても楽しい車と思えるようになった。誰がやっても巧くいく車とは違って、持てる技術を出して走れば楽しいからだ。

が、上手く走る必要はないのかもしれない。永遠の美少女を持つ誇らしさ、ミニに乗る姿こそ先端的ファッションで、走りながら醍醐味に浸る満足感も楽しいからだ。

ミニが誕生した59年は昭和34年、キューバ革命成功、中国進出でダライラマが宮殿脱出してインドに亡命。日本では皇太子殿下(平成天皇)御成婚。ブルーバード発売で日産はマイカー元年を宣言、そんな時代だった。

TVも快進撃中。NHK教育TV開局、テレ朝開局、フジTV開局。TV受信契約300万台突破。日本TVの”花と光と”は日本初のカラー連ドラ、野球のカラーナイター中継も初。人気番組は”番頭はんと丁稚どん”矢車剣之助”兼高かおる世界の旅”ザ・ヒットパレード”鉄腕アトム”まぼろし探偵団”少年ジェット”など。

マカオグランプリのパドックで見つけたミニモーク。AVISのレンタカーのようだ。日本でも時たま見かける
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