68年、69年、サーキットの花形は、大排気量エンジンにフルカウルボディーのグループ6と呼ぶレーシングカー達だった。豪快なエキゾーストノートをまき散らしながら駆け抜ける姿は、見る者を興奮の世界に誘い込んだ。
67年までのGPのキャッチフレーズは“TNの対決”。トヨタと日産の熾烈な戦いを指したものである。が、68年になると、そのTNに絡んできたのが、67年に名乗りを挙げた日本初のプライベートチーム“滝レーシング”だった。
それで、キャッチフレーズも“TNTの対決”になる。
68年、滝レーシングは、最新のポルシェカレラ10とローラT70で戦いに挑んだ。敵は日産R381、そしてトヨタ7。結果は“怪鳥”の異名を持つ、大きな可変リアウイングの日産R381(北野元)の優勝でけりが付いた。
さて69年の日本GPは変則的で、春秋二回開催となる。JAFの将来展望で、恒例5月の連休はF1を、秋にプロトタイプを、という方針である。
で、秋の第6回日本GPは、TNTの対決はそのままに、新たにいすゞワークスのR6とR7、プライベート参加のローラT70、ローラT160、マクラーレンM12など、互いに大排気量で豪快に意地を張り合ったのである。
本命の日産は、ウイングをやめたR382/6L・V12気筒600馬力。対するトヨタ7は5L・V8で530馬力。一方滝レーシングは、最新型ポルシェ917/4.5L・H12気筒520馬力と908/3L・H8気筒の二台に、なんとポルシェの現役エースドライバー、ジョー・シファートとデビット・パイパーを呼び寄せたのである。
結果はまたもや日産でR382(黒沢元治)が優勝。トヨタ7はパワーで太刀打ちできなかった。注目のポルシェは、エンジン不調で周回遅れという残念な結果となる。
が、勝った日産は直前に騒ぎを起こしていた。規則違反ではないが公式予選直前に、5Lから6Lへのエンジン変更届を出したのだ。もっとも、練習走行でのタイムが速すぎるので「日産は6Lじゃないか」との噂は立っていた。
さて、恒例5月連休の方は、フォミュラカーでの開催となる。が、自動車レース後進国日本らしく、F3、F2、F1(600~3000cc)混在という形となるが、ともかく開催に漕ぎ着けたのである。
生沢徹25才、加藤爽平24才、益子治23才のコルトF2Cを中心に、トヨタ7のエンジンを搭載した滝スペシャル、ブラバムロータス、ブラバムベレット、ブラバムホンダ、ブラバムコスワース、そして上州国定(スバル)など、27台という顔ぶれ。
日本初のフォ-ミュラレースとあって、オーストラリアとニュージーランド転戦のタスマンシリーズから、6人のドライバーと車が招待されて人気をあおった。
結果は、タスマン組のレオ・ゲーガン優勝、ポールポジションで期待の本命コルトの生沢がマシーントラブルで途中脱落。日本勢ではコルトの加藤が三位入賞を果たした。
このようにして69年=昭和44年は、日本GPが春秋二回開催された珍しい年となった。そして翌年、70年の日本GPは、公認クラブの参加ボイコットに始まり、生沢の選手宣誓拒否という事件が持ち上がるのだが、それについては次の機会に。
GP春秋二回開催の69年頃の日本経済は元気はつらつ。経済白書は“豊かさへの挑戦”で国民総生産GNPが世界第二位に。企業猛烈時代と云われた時代だった。東名高速346.7㎞全通。欠陥車公表が義務づけられたのも69年だった。