【車屋四六】ヤナセが育てたアウディ

コラム・特集 車屋四六

実用的ゴルフと高級スポーティー・アウディという、本国での棲み分けが日本でも定着したようだ。が、此処まで来るには、長年の努力があったればこその賜物だったと云えよう。

スポーティーイメージの発端は、クワトロの登場以来で。乗用車と四輪駆動のドッキングが認知されたからである。

もっとも四輪駆動と乗用車を量産販売した世界初はスバル1000だが、専門家は注目したが残念ながら世界を洗脳する力はなかった。

が、クワトロは、世界ラリー選手権を勝ちまくり、あっという間にチャンピオンの座に座り、アウディ=スポーティーを世界に認識させてしまったのである。

一方、日本でアウディの高級感を育てたのはヤナセの功績。

創業1905年、老舗アウディは、30年代ヒトラーの庇護のもとレース界で名をなすが、戦後の車は特徴が無く、50年代は{公務員の車}呼ばれるほど、魅力がなかった。

が、密かに高級スポーティーという目標での開発を始めていた。

偶然なのか、先見の明なのか、ヤナセが輸入販売権を取得したのがこの時代で、当初発売したのは公務員の車だった。

ヤナセが育て始めた公務員の車:人物は慶大アメフトの名選手でヤナセ入社の富澤孝/各車種販売で好成績を挙げ、世田谷支店長→梁瀬社長秘書などを歴任したヤナセ人間だった

この間本国で思わしくない経営状態のアウトウニオン社は、58年ベンツの傘下に、また69年にはVWの傘下に入るが、NSUも傘下に入り、アウディNSUアウトウニオンAGと名乗った。

その頃ヤナセは、既にベンツ、VWのエージェントだったから、販売量を増やしたいアウディの意向で、抱き合わせで販売権が転がり込んだのかも知れない。

67年型アウディ100の写真は、奥にVWが見えるから、晴海輸入車ショーのヤナセのブースだろう。当時のVWは、ビートル後継モデルの暗中模索時代で、更に奥にはVW1500の看板が見える。

この時代のVWは、アウディの売上げを伸ばそうとVWとアウディの類似点を強調していたが、76年のフルモデルチェンジで、政策が一変した。

VWは庶民の実用車、アウディはスポーティーにと路線転換したのである。そのイメージアップの仕掛け人が、81年登場のクワトロで、四輪駆動の実力を見せつけラリーを勝ちまくったのである。

アウディ=スポーティーのイメージが確立する頃合いを待ったのか、85年になると社名をアウディAGと改称する。

アウディ・クワトロの広告/ヤナセ

この間、ヤナセはコツコツと日本市場でのアウディのステイタス度高めて、ゴルフと両輪で販売量を増やしていった。

が、そのまま順調なら良かったが、ヤナセには思わぬ難関が待ち受けていた。VWアウディの100%子会社、フォルクスワーゲン日本が設立され、輸入販売権返上を余儀なくさせられたのである。

日本市場でドイツ車を育て知名度上げたヤナセの御大・梁瀬次郎社長は、ドイツで、ドイツ車販売の功績で貰った勲章を「こんな物は返上する」とまで云ったという噂も聞いている。

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