【車屋四六】日本初のターボチャージャー搭載車
ナゴヤ打ち・蟹の横歩き・レインボー作戦、そんな流行語が生まれたのは1979年。喫茶店を中心に全国28万台ものインベーダーゲームのせいだが、7月のピークの後あっという間に消え去った。 北国の春/千昌夫・想いで酒/小林幸子・ […]
続きを読むナゴヤ打ち・蟹の横歩き・レインボー作戦、そんな流行語が生まれたのは1979年。喫茶店を中心に全国28万台ものインベーダーゲームのせいだが、7月のピークの後あっという間に消え去った。 北国の春/千昌夫・想いで酒/小林幸子・ […]
続きを読むマツダの旧称は東洋工業、その前は東洋コルクだった。昔コルクは、瓶の栓や断熱材などの需要で人気素材だったが、1920年頃の経済不況に遭遇する…で、機械製造業の松田重次郎を迎え重役に。松田は21年社長に昇格、27年に東洋工業 […]
続きを読む世界中の自動車会社は、幾度かの危機を乗り越えた生き残りである。今回取り上げる、マツダも何度も危機を乗り越えてきた。(写真トップ:初代FFファミリ。報道試乗会は千葉南端の平砂浦で写真は半島の先端野島崎漁港) バブルが弾けた […]
続きを読むどこから見ても英国車の姿をしたアームストロングシドレイを銀座で見掛けた。運転手を見ると、俳優の山村聡だった。 もう一台、別のアームストロングシドレイもよく知っている。(写真トップ:アームストロングシドレイ・サファイア19 […]
続きを読む1955年/昭和30年、政府は一般日本人向けの乗用車輸入を禁止した…敗戦の後遺症による外貨不足が原因。で、外車ユーザーの政府高官、大臣、偉い政治家、大企業経営者、成金達が困った。 が、賢い政治家と役人達は、ちゃんと抜け道 […]
続きを読むWWⅡが終わってからの20年ほど、米国の乗用車は大馬力化・巨大化の競争期だった。大衆車のシボレーやフォードですら、全長が5mを越え、全幅も2m越えというほどのエスカレート振りだった。 そんな時代の1955年に登場したのが […]
続きを読む古今東西・芸能人やスポーツ選手は車が大好き。中高校生の頃の私は、ハリウッドスターが、豪華な高級車やスポーツカーを乗り回す姿に憧れたものである。WWⅡ直後の日本の、敗戦貧乏経済で自動車が輸入禁止の時代にも、芸能人が目立つ車 […]
続きを読む写真には多くの情報が詰まっている。たまたま見つけた写真(トップ)は、日野ルノー4CVの誕生は昭和28年、ブルーバード34年、日産オースチンA50は35年、ということで昭和35年頃だと判る。 此処で気がつくのは、ナンバープ […]
続きを読む奥日光の板屋は、輪王寺から湯守に定められた250年を誇る老舗旅館。其処の息子大類君が慶応の後輩なので、昭和20年代後半に同級の富澤康夫と泊まりに行ったのが最初だった。 その後も何度か訪れたが、卒業してからのある日、旅館に […]
続きを読む1980年、ついに日本は世界一の自動車生産国になった。 敗戦後の生産量ゼロからの出発のあと、わずか35年で世界で一番に、日本人の勤勉努力の賜物である。 戦争中、乗用車の生産は日産とトヨタの軍向けだけで、ダットサンは小型自 […]
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