永井電子機器とULTRAの長い旅
昭和29年/1954年、全日本自動車ショー(現東京モーターショー)が日比谷公園で産声を上げた。が、出品267台中、乗用車はたった9台。乗用車産業発展途上の日本らしく駐車場は自転車で一杯、少数の来客乗用車は公園周囲の路上駐 […]
続きを読む昭和29年/1954年、全日本自動車ショー(現東京モーターショー)が日比谷公園で産声を上げた。が、出品267台中、乗用車はたった9台。乗用車産業発展途上の日本らしく駐車場は自転車で一杯、少数の来客乗用車は公園周囲の路上駐 […]
続きを読む近頃の給油所の仕掛けは、天井からホースが垂れ下がるタイプと地面から突っ立っている給油機が大半を占めている。いずれにしてもハイオク、レギュラー、軽油、それぞれの地下タンクから電動ポンプで吸い上げ、給油される。 その電動ポン […]
続きを読む日本の前輪駆動の先駆フライングフェザーやスズキフロンテは軽自動車、登録車の元祖はスバル1000で1966年/昭和41年…多くの人が元祖と思っているホンダシビックは72年だ。 百瀬晋六を長とする旧中島飛行機の技術屋集団がス […]
続きを読む1970年直前の頃、三菱は暗中模索の中に居た。当時の三菱はマイナー的存在で、そこから脱出する為の模索だった。それには大市場である、大衆車市場での成功が必要だったのだ。 当時三菱はギャランとミニカは売れていたが、大衆車市場 […]
続きを読む浜名湖を挟み、織機メーカーでは世界一流に成長したトヨタとスズキ、自社の織機は頑丈自慢「いずれ世界に行き渡ると注文が無くなるから消耗品を造ろう」と将来を見据えた時、自動車が閃いた。 で、WWⅡ前の1930年代に、トヨタは大 […]
続きを読む1945年/昭和20年日本敗戦…以後日本は平和条約調印までの52年迄、GHQの支配下に置かれた。50年、財閥解体命令で三菱は東日本、中日本、西日本と三社に分割されたが、中日本重工業は52年に新三菱重工業と社名変更し、自動 […]
続きを読む通称グリーンパネルと呼んだマツダGA型三輪貨物自動車が誕生したのは昭和13年/1938年。この車のヒットでWWⅡ前、三輪メーカーマツダの地位が確立したと云っても過言では無かろう。 軍主導の合併で誕生した、終戦前オート三輪 […]
続きを読むWWⅡ以前、日本自動車市場は輸入車の天下で、ハイタク業界の主流はフォードが1925年、シボレーが27年と、ノックダウンを開始した両車が占めていた。一方、小型車市場は独占状態の英オースチンセブンの一角にダットサンと高速機関 […]
続きを読む平成末期から令和に跨がり、ルノーや三菱とファミリーを築き、とかく話題多き日産自動車だが、さかのぼればプリンス自動車と合併したことは周知の事実。そのプリンス自動車のルーツは、旧中島飛行機財閥解体で生まれた富士精密だが、立川 […]
続きを読む