【車屋四六】桜田通りに外車ディーラーが三軒あった
日本橋を起点に、銀座、新橋、品川、最後は大阪に到着する国道一号線と、札の辻でぶつかるのが桜田通りだが、三田の慶応義塾前から赤羽橋、飯倉、虎ノ門、最後が桜田門だから桜田通りと呼ぶ。桜田門は、井伊大老が水戸浪士に天誅を加えら […]
続きを読む日本橋を起点に、銀座、新橋、品川、最後は大阪に到着する国道一号線と、札の辻でぶつかるのが桜田通りだが、三田の慶応義塾前から赤羽橋、飯倉、虎ノ門、最後が桜田門だから桜田通りと呼ぶ。桜田門は、井伊大老が水戸浪士に天誅を加えら […]
続きを読むWWII前の日本製乗用車といえば、大型ではトヨタと日産、小型ではダットサンやオオタなどだが、戦争中の5年間のブランクが過ぎれば、おそろしく旧態依然とした車になってしまっていた。 もちろん勤勉な日本人のこと、戦後の混乱の最 […]
続きを読む「車は戸塚にある」というので、戸塚に行って驚いた。腹が立った。戸塚並木のガソリンスタンドに、私が愛したジャガーが埃だらけで放置されていた。 ガソリン屋の親父は、私たちを修理業者と知って「曳いて帰らなきゃ駄目だよ」と云うよ […]
続きを読む前回、メッサーシュミットで銀座のチロルに出勤するボコさんの話を書いた。そんなチロルで、思いだした話がある。 「貴方が犯人だったのですね」。ある日チロルにぶらりと入ると、いきなり洒落た紳士に声をかけられた。その日は、たまた […]
続きを読む今でこそ若者が集うお洒落な街は原宿、青山、六本木などだが、戦前戦後、お洒落な街といえば銀座だった。銀座は、日本の幹線道路、国道一号線を挟んだ街でもあった。 徳川家康の江戸が生まれて、それまでの京都中心が江戸中心になり、道 […]
続きを読むアメリカ人は、言葉を短縮するのが好きだ。テレビジョンをTV、コカコーラをコークというように、1955年突如登場したフォードのサンダーバードも”Tバード”と呼ぶようになった。 1955年といえば昭和 […]
続きを読む戦前戦後を通じて、アメリカには純粋なスポーツカーというものは無かった。もちろん、プロトタイプや少量生産のバックヤードビルダー的なものはあるが、アメリカが得意とする流れ作業による量産スポーツカーは無かったということ。 が、 […]
続きを読むこれだけは忘れてはいけないという歴史的価値のある車が、各国、各時代にある。史上初、革新的、記録樹立、いうなればエポックメイキングをやらかした車と云えるかもしれない。 自動車の世界ではダイムラーの二輪車、ベンツの三輪車は、 […]
続きを読む太平洋戦争に日本が負けて、米軍主体の連合国軍が占領にやって来た。そして米兵が町に出てくるようになると、最初に子供達が憶えたのは「ハロー」と「ジープ」そして「ギブミーチョコレート」。今にして思えば屈辱的英会話である。 初め […]
続きを読むせっかくソ連から親友高田嘉七が、たくさんの写真を撮ってきてくれたのだから、もう少し紹介しよう。 彼の撮影は1987年。当時のソ連は、85年誕生のゴルバチョフ政権で、スローガンはペレストロイカ=改革、グラスノスチ=情報公開 […]
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