豪商高田屋嘉平
親友高田嘉七とのなれそめは昭和31年。独逸人ルディー経営のビアレストラン元祖の銀座ゲルマニアで、毎晩顔を合わせるうちに何時の間にか飲み歩く仲になった。古めかしい嘉七の名には由緒があり、高田屋嘉平の七代目の孫、それで嘉七な […]
続きを読む芸能人の本質は目立ちたがり屋だと思う。もっとも引っ込み思案で目立たぬ存在では何時までも下積みで、晴れの舞台には上がれないだろうから当然なのかもしれない。 で、成功した一握りの人達は、WWⅡ後の貧乏国時代でも、ステイタスな […]
続きを読む2008年リーマンショック世界恐慌の発火点が米国だけに、手当が早かったフォードを除き、GMクライスラー共に瀕死の重傷を負った。が、米国屈指の大企業だから政府が助けるという他力本願の体質がそうさせたと指摘する専門かもいた。 […]
続きを読むフェアレディと云えば美人を連想するが、命名の動機を聞くと落胆する…実は川又克二社長がニューヨークでロングラン・マイフェアレディを見て感動したからだと聞いた。 が、米国自動車殿堂入りした片山豊米国日産社長は「女の名前じゃス […]
続きを読む幼児の頃から{神の国}と叩きこまれ、負けるはずがない日本が太平洋戦争に降伏したのは昭和20年/1945年8月15日。学童集団疎開先の栃木県岩舟村髙平寺本堂のラジオで、生まれて初めて聞く天皇陛下の声=玉音放送で知った。私は […]
続きを読む手間が掛かるのか近頃見なくなったのが木製ボディー。WWⅡが終わってから暫くは、日本の街角でもよく見かけたものだった。 終戦直後の私は中学生で、車は好きだったが詳しくなかった。で、木製は安い車だと思った…当時の日本は、木・ […]
続きを読む日本でのオペルは浮き沈みが激しく馴染めないが、欧州では老舗名門で今でも元気一杯、戦前は何度か欧州一を誇り、大歌手藤山一郎なども愛用した人気者だった。WWⅡ以後も二度ほど元気な時代があった。50年代と90年代だ。 そもそも […]
続きを読むガルウイングとはカモメの羽だが、車業界では両側ドアを上に跳ね上げた姿から連想して、ガルウイングと呼ぶ。この姿、デザイナーには憧れのようで、ショーモデルや習作作品には良く見られる。が、夢を実現し量産販売した車もある。トヨタ […]
続きを読む昭和一桁生まれの我々は乗用車といえばアメリカ製だった。で、鮫洲での運転免許実地試験も1936年型シボレー・フェートンで、最初のマイカーもガタボロの38年型シボレーだった。 以後スポーツカーを除き、ジャガーMK-Ⅶやキャデ […]
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