【車屋四六】ハドソン
二〇世紀初頭に実用化された飛行機は、ドーバー海峡を何時?誰が?横断するか、が当時大きな話題で、初横断飛行に2万5000フランの賞金をデイリーメイル社がかけた。 1912年、その賞金を頂戴したのは、フランス人ルイ・ブレリオ […]
続きを読む二〇世紀初頭に実用化された飛行機は、ドーバー海峡を何時?誰が?横断するか、が当時大きな話題で、初横断飛行に2万5000フランの賞金をデイリーメイル社がかけた。 1912年、その賞金を頂戴したのは、フランス人ルイ・ブレリオ […]
続きを読むWWⅡ後、最盛期のヤナセは、GMの全車種を任された代理店だった。中でもビュイックはヤナセ発展の屋台骨で、25年/大正14年の広告は梁瀬自動車(株)だが、当時は{ビウイク號}が日本語表記。そう、ヤナセはビュイックの販売が出 […]
続きを読む東北乗用車道那須インター近くの自動車博物館で、モーリスマイナー54年型に出会った。 54年の日本では、女性の体形基準が変わった。それまでの胴長短足ウリザネ顔という基準が、八頭身に変わったのである。 発端は、ミスユニバース […]
続きを読む近頃ダイムラーベンツ社の高級乗用車と云えばマイバッハ、そして次がメルセデスだ。が、第二次世界大戦以前、マイバッハは違う会社の高級車だった。 マイバッハは、ヒトラー総統が好むメルセデスベンツに対抗する、ライバル高級車だった […]
続きを読むドイツの自動車博物館で見つけた真っ赤なオートバイは、1928年製オペル・モトグループSS。スマートな姿もそのはず、当時一流デザイナーのエルンスト・ノイマンの作品なのである。 単気筒498cc・16馬力(後に22馬力を追加 […]
続きを読むこの冊子の表紙は1997年5月、手元に届いたグッドイヤーニュースの表紙。グッドイヤーは、長いこと世界一のタイヤメーカーだった。その会社の協賛で映画グランプリは製作された。 映画は1966年に撮影されて、日本での封切りはテ […]
続きを読むアメリカ自動車殿堂入りした片山さんの、自動車への情熱は素晴らしいもので、あちらこちらで活躍の足跡を残している。 たとえば「そろそろ日本にも自動車ショーがあっても良い頃だ」と推進したのが片山さん。そのせいかどうかは知らない […]
続きを読むミスター、ダットサンと呼びたい人が居る。 アメリカではミスターKでとうり、またの名をファーザー・オブ・Zカー(Zの父)と呼ぶように、フェアレディーZを、アメリカで100万台も売った偉大な功績の持ち主である。 その名は片山 […]
続きを読む写真のロードスターは、フィアット1500Sトランスフルマビレと呼ぶ。 オーナーは宇田川武良。NDC東京(日本ダットサンクラブ東京)のメンバーで、モータースポーツが盛んになるとSCCN(日産スポーツカークラブ)の創立メンバ […]
続きを読む高度成長期「いつかはクラウン」という願望言葉があったが、バイクの世界ならハーレイダビッドソンだろう。そのハーレイの日本初上陸は1917年/大正6年、大倉商事が輸入した。 当時アメリカで、ハーレイとタメを張っていた双璧がイ […]
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