BANZAI SAFARI 三冠王

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BC戦争って知っていますか? 昭和34年誕生のB=初代ブルーバード310対C=コロナの、熾烈なトップ争いだった。初戦は310の圧勝で、次の410がデザインでつまずくとコロナがトップに…で、王座奪回を旗印に開発されたのがブルーバード510だった。

サファリの後、世界のラリーで活躍するようになったブルーバード510。1969年イギリスRAC国際ラリーでの勇姿。

1967年誕生の510は、念願の王座奪回を果たした。67年といえば「カッテモ、カブッテモ、オヲシメル」と、ワケのわからぬ名文句が生まれた年。日系3世藤猛がボクシング世界チャンピオンになり「勝って兜の緒を締めよ」のつもりだった。

日産が挑戦を続けるサファリラリー、68年の陣容はバリバリチューンのセドリック軍団に、やる気なさそうな市販車の510が1台…どこまでやれるかの試走だった。が、走り出した510が予想外の快走を始めた。勝負にタラレバは禁句だが「もし現地人の投石なけレバ、それでナビゲーターが負傷しなけレバ、負傷でリタイアしなけレバ」あわや優勝という快走だったという。

明けて69年の大会は、100馬力から130馬力になったサファリ仕様の510が4台。結果は4、5、7位、クラス優勝+メーカー優勝で、510の高性能・頑丈・廉価が世界に知れ渡った。

で、翌70年は、参加97台中32台が510。SU二連装からソレックス二連装の510は念願の優勝。それも総合優勝、クラス優勝、メーカー優勝の三冠王という快挙だった。BANZAI SAFARIの見出しが世界の紙面を飾り、410で初参加以来8年目にして日産は念願を果たしたのである。この快挙は「栄光への5000キロ」の題名で、石原裕次郎が映画化…もちろん日産は海外ロケなど協力を惜しまなかった。

「これを機に輸出を」というような広報発言があったが、…元々510は輸出を念頭に開発されたもので、きっかけは米国日産の片山豊こと、オトッツァンだった。「加速悪い、スピードが出ない、ブレーキが効かない」と苦情を聞きながらも、売り上げを伸ばすオトッツァンの本社への要請。売れないうちは馬耳東風だった本社も、売れ始めると聞かないわけにはいかなかった。

強力なOHCエンジン、四輪独立懸架、いうなればメルセデス・ベンツのような機構と操安性で、値段は安く押さえてくれという要請だった。というなことで誕生した510。オトッツァンは、得たりやおうとばかりにアメリカで売り上げを伸ばしていった。だからサファリ優勝は、ヒョウタンから駒が出る的な金星ではなかったのだ。

WWⅡ前、奇抜なアイディア連発でダットサンの名を小型車の代名詞に。戦後はZの源流ダットサンDC-3を開発、豪州ラリー優勝で世界にダットサンの名を知らしめた。そして、日本車など相手にされぬアメリカで着々と販売網を構築し、Zの驚異的な売上げでスポーツカー市場に金字塔を打ち立て、片山さんはダットサンの名と信用をアメリカに定着させた。

最後は米国自動車殿堂入りと、長い日産の歴史上これほどホームランを打ち続けた社員はいないだろうと思う。なのに3冊の日産社史に片山豊の名が見つからないのは、不思議の一語に尽きる。

(車屋 四六)

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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