マハティールとプロトンとダンガンと

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子供の頃は馬来=マライと呼んだイギリス領が、WWⅡ後に独立しマレーシアが誕生する。戦前から主要産物はゴム…戦後石油科学が発達しても、相変わらず天然ゴムは重要な産物だった。

ちなみにマレーシアは立憲君主国で国王がいるが、13ある州のうち九つの州でスルタン(首長のこと)がおり9人のスルタンから互選で国王が選出され、5年交代輪番制というのが面白い。その下に医師であり独立運動家だったマハティール首相が誕生した。

クアラランプール王宮前の筆者と番兵。

マハティール首相は、港湾・鉄道・空港などインフラ整備に力を注ぐ一方で、重工業の発展も視野に入れ、その中に国民車構想があり、品質性能が欧米先進国と同じなのに安い日本車に着目した。まず打診したダイハツにはその気がなく、三菱自動車の協力を得ることに成功。当時の久保富夫会長が親身の相談にのったという。

久保富夫は、帝国大学工学部航空学出身で三菱入社。彼が開発した陸軍の双発100式司令部偵察機は、追い風とはいえ北京から福生2250㎞を3時間15分、時速700㎞を記録。この100式司偵の俊足は当時の欧米新鋭戦闘機が追いつけぬ快速だった。その俊足と美しい姿に、米英のパイロットは「ビルマの通り魔」「地獄の天使」などと呼んでいたそうだ。

さて、当時の東南アジアの自動車産業は自国に経営権がなく、マハティールのマレーシア政府と三菱合弁のプロトン社は、経営権を持つ東南アジア初の自動車製造企業となった。何度か訪日した首相は、久保会長から個人的に自動車会社の経営ノウハウや、技術的なことも学んだと聞く。

プロトン・サガ/1985~2008:FWD/全長4310×全幅1650×全高1360㎜、ホイールベース2380㎜/1.3?・1.5?/直4SOHC/ヒーターなし強力エアコン標準装備・輸入車関税200%で保護してシェア50%を超えシンガポールなど近隣諸国に輸出されている。

一方、三菱はミラージュベースで開発した、プロトン用1.5ℓフォードアセダンを試作する。そしてクアランプール郊外シャーアラム工業団地内のプロトン工場から第1号車完成が85年7月で、サガと名付けられた。

三菱広報に招待されて、89年にプロトンの工場見学をと現地を訪れたら、街にはサガが、サガのパトカーも走っていた。

工場稼働開始時に、大半のマレーシア人がイスラム教徒なので、時間が来ると作業を放り出してお祈りを始めるので、面くらい困惑したそうだ。で、昼組と夜組の交代をお祈りの時間に合わせて休憩時間として、解決したと笑っていた。

工場見学が終わると「ダンガンで走りませんか」といわれ、喜び勇んで工場からマラッカに向けて出発した。当時ミニカ・ダンガンは550ccの時代で、速度リミッター解除の海外でのターボ車は、時速150㎞超えで巡航できた。

マラッカからクアラルンプールへの帰路、高速道路を外れて農家の前でダンガンのポートレイトをパチリ。

ちなみに89年登場のダンガンの直列3気筒550ccは、世界初5バルブDOHCインタークーラーターボで64馬力だった。途中SAらしきところで一休み。すると追い越したメルセデス・ベンツやBMWなどのドライバーが「このクルマは何だ」と聞くから「三菱の新型ダンガン・550ccで64馬力」というと、この日本人は嘘つきではないかというような顔をしていた。

無事マラッカに着き、ホテルの窓から下の屋台で強烈なにおいさえ我慢すれば、最高にうまいと評判の果物ドリアンを売っている。好奇心にかられて生まれて初めてのドリアンは、それほどくさいとは思わず、それほどうまいものでもなかった。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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