片山豊よもやま話-10

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麻生家とは縁戚関係があり、日産コンツェルン総帥鮎川義介は、幼少期から知る豊少年にカリスマ性あるを認めたのだろう、慶応大学を卒業すると日産自動車に入社させたことを以前に書いた。

WWⅡ前の企業には宣伝広告などという意識はなく、新聞雑誌に付き合う程度で図案製作などは業者まかせ。そんな部署に配属されて工場で働きかたかった片山さんには迷惑な人事だった。が、そんな部署でも直ぐに持ち前の天性が芽を出した。物を売るには、会社と製品を多くの人々に知ってもらうことが肝要。それに必要なのが宣伝広告、と割り切れば即実行。

昔女学校卒業後働くなど考えられない裕福家庭の娘達を募集、ダットサンガールを組織しての宣伝や訪問販売。一流女優とダットサンコンビのキャンペーン。当時浅草国際劇場で人気抜群の松竹女子レビューの舞台にダットサンを走らせ、と常識外れの手段を連発、ダットサンを小型車の代名詞的存在にまで高めてしまった。

1936年/昭和11年組織のダットサンガール:知識階級の医者や弁護士相手には家庭で教養礼儀作法を身につけた女学校卒をと当時としては常識外れの企画だった。

そのままなら片山さんの人生は順風満帆、前途洋々だったのだが、日中戦争開始、続いて太平洋戦争に突入、そして予期せぬ敗戦を迎える。

コンツェルンは財閥解体令でバラバラになり、御大鮎川義介は戦犯で囚われ釈放されると公職追放で戻らず、日産が困ったところに興銀から川又克二が派遣され、日産の体質が180度転換したのが、片山さんには不遇の始まりだった。

戦後も日産に貢献意欲満々の片山さんは、フライングフェザー、ダットサン・スポーツと意欲作を連発するが、どれも社外での製作。鮎川時代なら御手柄だろうが、官僚銀行体勢に変質した日産で、よくぞクビにならなかったものだと感心する。

今でも歴史ある日本の大企業では、出る杭は打たれるの例えどおり個人プレーが嫌われ、左遷されるのが当たり前だからだ。が、その後もヒットを連発する片山さんだが、それはボイコットとの戦いでもあったと想像する。

それはそれとして、片山さんは戦後一発目のホームランをカッとばす。1957年/昭和32年、初代トヨペット・クラウンDXで、日本人ドライバーが豪州ラリーに出場。参加102台中完走52台という過酷なトライアルを完走した。それを知ったオトッツァンは、ダットサンでの挑戦を企画、会社のOKをとり参戦準備を始めた。

1958年豪州ラリー出場ダットサン210富士号:全長3860×全幅1466×全高1535㎜・ホイールベース2220㎜・車重925㎏・直4 OHV988cc・34馬力・3MT・最高速度95㎞/車の汚れから途中のチェックポイントでの写真だろう。

通称豪州ラリー、正しくはモービル・トライアルで、オーストラリア外周を一周して約1万7000㎞、地球半周ほどの悪路を走り続けるもので、未だサファリラリーやキャベルトロフィーなどなかった時代、世界一過酷といわれていた。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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