クライスラー・インペリアル

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WWⅡ後、淘汰が進む米市場で勝ち残ったのは、ビッグスリーと呼ぶ、GM・クライスラー・フォードの三社だった。
今ではビッグツーになって、クライスラーはフィアットの傘下だが、戦後の一時期、フォードを押さえて米国二位の地位を張っていたいこともあるのだ。

戦中は乗用車生産中止だから、新規需要と買換え需要で戦後の米市場は好景気に沸き、新車販売は大量に売れ続けていた。そんな1948年のビッグスリーの生産量は、GM141万余台、フォード65万余台に対しク社74万余台だった。

常にスタイリングや技術でライバル達の先頭を走っていたクライスラーが1947年に発表したタウン&カントリー:後半部をウッドで仕上げた姿がひときわ人目を引いたものだった。

49年、例の戦後デザイン斬新フラッシュサイド姿のフォードが登場し、その人気で103.1万台に伸びるも、ク社は103.5万台で二位を守ったのを最後に、50年にはフォード151万余台に対しク社111万余台と差がつき、徐々に差が増していった。
原因は戦後の販売網再構築をなおざりにしたからと云われている。

そもそもク社創業以来のモットーは{技術優先}だった。
シェア獲得の折返し点になった50年も、当時の米市場での馬力競争では常に先頭を走り、ジェット戦闘機モチーフのテイルフィン旋風の種を蒔いたのもク社だった。

フォード・マーキュリー・リンカーンとは別格のコンチネンタルを55年に復活させると、打てば響くように登場させたのがインペリアル。下位からプリムス・ダッジ・デソート・クライスラーと並ぶシリーズとは別格の豪華高級車だった。

登場したインペリアルは、見るからに豪華な高級車といった風情で、テイルに孤立する機銃の照準のようなテイルライトが宝石のように輝き個性を生み出していた。
長大なボディーは長いWB、130インチ=3250㎜から生まれるが、更にリムジン用では3780㎜もあった。ちなみに55年に出荷された172台、56年226台の八人乗りリムジンは、クライスラー最後のカタログモデルとなった。

1955年型クライスラー・インペリアル:米国の高級車らしいメッキの使い方が見事だ。

当時各社で競う馬力競争に対するエンジンは、技術のクライスラーに恥じぬもので、V型八気筒・5395ccは280馬力を誇っていた。この馬力は年々向上し、59年には6768cc・350馬力にも発展する。
が、落葉のように衰退するク社のインペリアル、最後の81年モデルは、WB3175㎜に搭載のV8・5088ccは140馬力しかなく、小型になった姿からは、かつての栄光を背負ったインペリアルの姿は何処にもなかった。

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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