昔自動車広告は絵だった-6

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1933年ヒトラーが政権を掌握すると、国中に広がる熱狂と共に驚異的速度で国防費が増大する。33年8%→34年18%→38年50%というように。が、ヒトラーの方針で自動車産業活性化、国民車構想、そして国威高揚手段の一つがサーキットでの勝利。で、自動車産業は束の間だが潤う時代が到来する。

そんな時代が始まる一年前の1932年のポスターが初めの一枚。
ヒルクライムのシーンで、31年登場ポルシェ開発の究極Sシリーズと云われたSSKL。6.79ℓOHVは加給で27/170/300PS・最高速度235㎞という強者で、幾つもの勝利を挙げる傑作だった。

国威高揚が絡まずDB単独で戦っていた頃のメルセデスベンツ、Sシリーズ究極のレーシングカーと呼ばれたSSKLの勇姿。

さて、背後にナチが控えたドイツのチームは二つ、アウトウニオンとDBで、監督ノイバウアー率いるDBの陣容は、8台のトランスポーターに6台のレーシングカー+50名のメカニックと山積みの装備品で欧州のレース場を駆け巡り、史上最大のファクトリーチームと云われている。

1937年の二枚目ポスターは、史上最強・最速と云われたW125/5.66ℓ・646馬力・最高速度333㎞で、図柄はトリポリでDBチームのエース、ヘルマンラングが524㎞を2時間27分57秒で走り抜け、国際新記録で勝ったというものである。
ちなみにW125は、速度記録用に5.76ℓ/736馬力・V12気筒を換装し、Rカラッチオラの操縦で、アウトバーンで432.7㎞の国際新記録を樹立…これは今だに破られぬ公道世界記録だ。

ナチのバックアップによる潤沢な資金で開発された史上最強・最速のレーシングカーと呼ばれたメルセデスベンツW125がHラングの操縦でトリポリGPに優勝と誇らしげなポスター。

三枚目の表題は{1938勝利新記録の年}とあり、車は新鋭W154。
ドイツ勢のあまりの強さに、GP組織委員会の規則改正は今でもある手法だが、それで生まれた3ℓフォーミュラも、破竹の勢いを阻止することはできなかった。

此処まで来れば嫌みな戦勝報告だが、この表の隙間と登場しないGPレースを埋めるのはアウトウニオンのベルント・ローゼマイヤなのだ。結局ドイツ勢が総なめで、この年他国の優勝は一レースだけだったと聞いている

ポスターで判るように、連戦連勝、しかも二台入賞、1.2.3位独占も三回というように、どうしようもない強さだったのだ。

表を見ると、DBのエースドライバーのヘルマン・ラングとルドルフ・カラッチオラが、如何に点を稼いでいたかが判る。そして二年連続でカラッチオラはヨーロッパチャンピオンに輝くのだ。
もっとも、DBの名がない空欄、そして他のレースで勝ち名乗りを挙げるのはDBのライバル、アウトウニオンで、結局は、ドイツ勢の勝利に終始したのである。

この時代の車以外の広告も、もう広告とはいえドイツの国威高揚プロパガンダ的要素を強く感じるものばかりである。
もちろん、他業種の広告も右に習へだが、もっと過激に国威高揚を打ち出していたのが日本の報道だった。が、戦後になって知った当時の戦況報道は、嘘の塊だったのである。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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