日本初小型前輪駆動車はスバル1000

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日本の前輪駆動の先駆フライングフェザーやスズキフロンテは軽自動車、登録車の元祖はスバル1000で1966年/昭和41年…多くの人が元祖と思っているホンダシビックは72年だ。

スバル1000FFセダン/1966年:リッター900×全幅1480×全高1390㎜・WB2400㎜・車重670kg・水冷水平対向四気筒OHV・977cc・55馬力/6000回転・4MTコラムシフト・最高速度130㎞

百瀬晋六を長とする旧中島飛行機の技術屋集団がスバル360開発に目を向けた時は、先ずFFだったが既存の前輪等速ジョイントに良品が無くRRで開発し好結果を得たが、次の登録車を計画した頃に、オースチンミニが登場、そのバーフィールドジョイントを念頭に開発が始まったのである。

で、バーフィールド社と契約し開発を始めたが元飛行機屋は満足できず、国内業者と共同開発、その目処が立った頃バーフィールド派遣技術者が居ないことに気が付いた…後日英国での特許確立を知り、富士重工は世界中からの莫大な特許料収入を逸した。世界最高の頭脳集団も「無知だった」とは百瀬さんの後日談。

余談はさておき、1000の開発では飛行機屋ならではのアイディア技術が存分に盛り込まれた。開発目標は一クラス上の動力性能と居住空間、360で定評を得た良好な乗り心地の確保だった。

先ず飛行機で云う応力外皮は、当時常識より0.2㎜薄い0.6㎜鋼板のモノコックボディーで髙剛性軽量化に成功。当時FFの定評はFRより登坂能力に劣り、低速時重い操舵力、回転半径大などで、その不評を解消するための実験が繰り返された。

登坂力は、荷重配分が前輪60%以上なら問題解決。で、前輪駆動シャフトを中心に、前方にエンジン、中央にデフ、後部に変速機という構成で、好結果が得られた。

重い操舵力と回転半径は、ホイール内にブレーキという従来方式ではなく、車体中心側に装備するインボードブレーキを採用、加えて各部構造の見直しで操舵力を軽減、回転半径を4.8mにすることができた。

エンジンは、スバル360の始めに居住空間ありきと同じ思想で、重量軽減には日本初量産型アルミエンジンを開発、形式はコンパクト化に有利な水平対向型四気筒とした。

その結果、低重心になり、スポーティードライブで安定姿勢が保たれ、またエンジン+デフ+変速機が直線的に並ぶ縦置き配列で、吸排気系統+補機類、ドライブ系統が左右均等になり、バランス良い操舵感覚が得られるようになった。

また、後年四輪駆動車の開発時には、一直線に並ぶ駆動系からシャフトを伸ばすことで簡単にバランスの良い、四輪駆動乗用車を完成することにもつながった。

66年に発売されたスバル1000は、評判よく市場に迎え入れられた。その先進性を見抜くユーザーは、自動車では発展途上国の日本では少なかったが、欧米のメーカーが興味を持って購入、徹底的に検討したと云われている。

世界最高の戦闘機などを造った技術屋集団初の登録車は、いきなり世界水準に達していた、いや越えている部分も多々あったのだから、今にして思えば嬉しい限りである。

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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