ダイハツ・ミゼット

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1954年/昭和29年、トヨエースの登場で、一世風靡した三輪貨物自動車/オート三輪がトドメを刺されて、物流界から消えていった話しは前回だったが、しぶとく生き残って大活躍したのが、ダイハツが開発したミゼットだった。

関東大震災直後、復興再建に必要不可欠な物流で、貨物自動車やバスなど、一気に日本に自動車が普及したのは紹介済みだ。
同様に、戦後にも物流整備が不可欠で、貨物自動車が重要な役割を果たすが、戦後10年ほどの主役は経済性と扱いやすいという点で80%以上が三輪貨物自動車だった。

その三輪車は、市場ニーズで大型化、高性能化、発展するが、前回述べたように、54年に登場したトヨエースにより敗退、市場から去っていった。

その頃、三輪車界では一方の雄だったダイハツは、次の課題を暗中模索していた。で、先進国米国のマーケティング手法を導入、調査の結果は、三輪車のユーザーは従業員10名以上の企業で、以下の企業や商店には入っていない。彼等は、昼前に自転車で得意先から注文を取り、午後自転車で配達するというパターンが判った。

もし安い小型貨物自動車があれば、朝商品を積み、その日の注文品はその場で渡せるから、これまでの一日がかりの商いが昼前に終わり、午後は急造する団地などを周り拡販に使え、売上げ増進に繋がる。これを同時拡販制度と名付けて売り込めば、かなりな需要が見込めるという結論に達したのである。

こうして軽三輪貨物自動車開発プロジェクトチームが発足したのが1953年で、完成した車にミゼットの名を付けて売りだしたのが57年だった。その値段は、資金量が乏しい個人商店を目標に定めて、一ヶ月の販売高と支払い可能な車購入費を割り出した結果、価格は15万円が目標だったが、どう切り詰めても19万3000円、でも三輪車の半値に近いから、と発売に踏み切った。

 

結果は初年度こそ僅かだったが、二年目より伸びを見せ、55年末には8128台という当時としては驚異的販売台数を記録した。
丁度その頃日本ではTVの普及が始まり、大阪の人気番組{やりくりアパート}での人気者・大村昆と佐々十郞のコンビをCMに使ったのも大当たりで、人気上昇の一翼を担った。

また53年から始めた輸出も好調で、タイ、ビルマ、インドネシア、パキスタンなどではタクシー業界に人気で、予想外は米国でも売れたこと。納入先はボーイングなど大企業で、工場内の部品運搬などで重宝されたようだ。

ミゼットが評判になると、我も我もとライバルが登場して、遂に8社が顔を揃えながら発展を続けたのである。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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