海軍一式陸上攻撃機と山本五十六提督の死

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太平洋戦争突入で米国は日本語学校を開設し、日本は敵性語だとして英語禁止。で、野球のストライク=よし、ボール=だめ、ゴルフ=芝球、サッカー=蹴球、テニス=庭球、マイクロホン=送話器、ゴールデンバット=金鴉煙草、コロッケ=油揚饅頭、カレーライス=辛味入汁掛飯、ワシントン靴店=東條靴店、マッチ=当て摺。島国根性というか何とまあケツの穴の小さいことである。

昭和18年になると文部省通達学徒訓練要項で大学野球禁止。その年の4月、悲しい訃報が届いた。山本五十六大将の戦死。当時日本は神の国で、英雄が死ぬと軍神で大将が元帥に昇格。小学生の筆者は、麻布飯倉坂下で日章旗を振り、国葬の行列を見送った。

当時ラジオ新聞は連日連戦連勝と景気の良い報道続々だったが、現実は負け戦が始まっていたのを、終戦後に知った。で、山本司令長官は士気を鼓舞する為に、歴戦強者操縦のゼロ戦6機を護衛に一式陸上攻撃機2機で最前線基地巡回を実施したのである。

一式陸上攻撃機、愛称一式陸攻は三菱が開発した海軍長距離攻撃機の世界的傑作。陸上基地から遠方海戦場を攻撃が開発コンセプトで、空冷星形1530馬力×2、最高速度428㎞、航続4200㎞。

ジャングルから回収され展示されている三菱の傑作・海軍一式陸上攻撃機:最終型諸元/全長20x全幅25m・空重量7屯/全備重量9.6屯・空冷星形火星1850馬力・最大速度442㎞・上昇限度9000m.航続距離4300㎞・爆弾搭載量1屯・13㎜機関銃x1/20㎜機関砲x4。

開発主任の本庄季男技師は、昭和28年頃私と同じ日本グライダークラブで一緒だった。陸攻開発中、ドイツ人技師が独特な葉巻型胴体のモックアップを見て「ようやく日本でも四発が…」と云うので「これは双発だ」…「これだけ大きいとドイツでも四発でなければ」と云いやがってね、と嬉しそうに語っていた。

さて、開戦前から米国は日本の暗号を解読していた。で、長官巡回を知ると、太平洋では至難のピンポイント待伏せ作戦を実施…その根拠は、山本は時間に正確という米軍の解釈からだった。
長官機がラバウルを離陸すると、同じ頃ガダルカナルからロッキードP38双胴戦闘機16機が離陸。ブーゲンビル島上空で待っている所に長官機飛来…ゼロ戦の奮闘むなしく長官機は被弾炎上、ジャングルに墜落した。

展示機の解説に山本五十六署名入り写真と当日の両機飛行経路図

報道では、着座姿勢で軍刀を膝に挟み頭と胸に被弾、壮烈な戦死ということだった。が、戦後、翌日に遺体発見した軍医は「明け方まで存命」が所見なので、墜落当日なら助かっていたかもしれない。
が、戦況不利で覚悟の基地巡回という歴史家もいるが、前々日投函された姪宛の手紙からは覚悟の飛行とは感じられない。

長官搭乗機は、戦後だいぶ後になって米軍がジャングルから収容して米国に運び、現在はLA近くのチノ航空博物館に展示されている。ちなみに、同博物館には復元されたゼロ戦や雷電戦闘機、特攻機の桜花と橘花も展示されている。また、入間で飛行し、現在知覧の特攻記念館に保存されている、陸軍四式戦闘機{疾風}をレストアしたのも同博物館である。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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