バンコクで出会ったキャデラック

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日本は既に勢いを失い、世界の自動車産業の視線は中国だが、相変わらず集客数ではバンコクが最大のショーで、そこでキャデラック1941年型コンバーティブルに出会った。

日本軍の真珠湾攻撃が12月だから、その直前に生まれた車だろう。戦時体制以降で、GMは42年に民需用車輛の生産を中止したので、戦前最後のキャデラックである。
ちなみにキャデラック41年の全生産量6万6130台中、コンバーチブル3100台。その1台がタイにあったのだ。同じ年、GMの大衆車シボレーは100万6934台出荷されている。

1941年型キャデラック・コンバーチブル:ホワイトサイドウオールタイヤとリアフェンダーカバーは高級車の象徴

写真のキャデラックは、V型8気筒サイドバルブ・5674cc・150馬力・車重1825kg・前輪Wウイッシュボーン/後輪半楕円リーフ+リジッドアクスルは、フルサイズを謳歌した米車の定番的構成。

フルサイズカーの国アメリカの高級車ならではの長大ボディーと、ホワイトサイドウオールタイヤの後輪には紋章入りのホイールカバーが、幌は電動、ボンネット先端に羽を広げた女神像が。

リヤフェンダーにはキャデラックの紋章が。

戦後アメ車の定番になる白いハンドル中央のホーンリングと3MTコラムシフトは、戦前では斬新装備。プッシュボタン選局型ラジオの両端に速度計と時計。木目もどきの塗装インパネ。3人掛けベンチシートは革張り。

インパネは左から、燃料計、水温計、電流計、速度計、ラジオ、時計/窓と三角窓開閉はレギュレーターで/コラムシフト、ハンドルにホーンリング。

さて20世紀前半、キャデラックとパッカードは米国を代表する高級車で、歴代の大統領が愛用し、世界の王侯貴族御用達、日本でも宮家や華族御用達だった。

戦後の日本では、先ずマッカーサー司令官のリムジン、皇室の52年型リムジンを筆頭に大臣高級官僚、在外日本大使の公用車と、軒並みキャデラックのオンパレードだった。

一方民間では大企業トップ、力道山、石原裕次郎、美空ひばりなどの愛用で誰もが憧れるようになり、1910年以来輸入権を持つヤナセは、世界のGMディーラー中、キャデラックの年間最多販売店としてGMに表彰されるほどに売れたのである。

米軍のベトナム戦介入まで、キャデラックの高級高品質は、創業者リーランドのポリシーが受け継がれていた。先進技術採用には積極的で、セルモータの採用、シンクロメッシュ型変速機、前輪独立懸架、パワーステアリング、エアコン等々、みな世界初採用だった。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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