自動車レースの始まり

コラム・特集 車屋四六

人が道具を使い始めると、必然的に優劣を付けたがる。
「やられたら・やり返せ」は普通の感覚だが「やられる前に」と云う頭脳派もいる。我慢しろという偉い故人もいたが、とにかくそんな単細胞集団が馬みたいな発動機という心臓を持ってしまったのだから、黙っているはずもなかった。

で、第一回自動車レースは1894年/明治27年のこと。仏プチジャーナル社主催のパリ・ルーアン間126㎞は二輪も参加し、後にフランス自動車倶楽部へと発展することで意義があった。

パリ・ルーアンレース出場のドディオンブートン。

第二回は、パリ・ボルドー往復1170㎞…トップゴールは前回同様にパナールとプジョーだったが、二回目は2台とも失格…三座席以上という規則に反し、2台共に二座席だったからだ。で、結局優勝は11時間遅れてゴールのプジョーの手に。

以前ルマン24時間レースを一人で走りきったと聞いて感心したことがあるが、第二回のレースでトップゴールのパナールを運転したルバッソールは、昼夜ぶっ通しで48時間48分を一人だった。
平均速度24KPHだったが、参加車中最終ゴールは2日遅れて到着の1880年製ボレー蒸気車だった。
*KPH=キロ・パー・アワー:現在日本はkm/hだが、米国ではマイル表示でMPH、欧州では粁表示らしく今でもKPHで通用*

自動車はレースごとに速度が上昇していく。1896年のパリ・マルセイユ往復1700㎞では、耐久力も要求されるようになる。そして上昇した速度で事故が続出した。
パナールを運転し常勝のルバッソールも、このレースで犬を跳ねたはずみで転倒し死亡。他にも坂を転げ落ちたり、立木にぶつかったりと大変なレースになってしまった。ちなみに優勝車はパナール四気筒38馬力で平均速度35KPHだった。

初期のパナール

飛行船や飛行機同様、速度の上昇で問題になるのが空気抵抗…メーカーもドライバーもそのことに気づき始め、1897年頃になると、流線型が登場する。イエリネックが惚れこんだボレー/1899年も流線型で、前回紹介の水雷艇は空冷水平対向四気筒がツインキャブで90KPHという当時としてはズ抜けた速さの持ち主だった。

とにかく馬力は日ごとに上昇し、流線型と相まって速度も上昇した。一方、時代の花形、電気自動車も負けてはいなかった。後にベンツのトップレーサーになるベルギーのイエナッチは、1899年に自作のアルミボディー電気自動車で、ゼロ‐100㎞加速で105KPHという大記録を立てている。

さて、1890年代、レースはパナールとプジョーの一騎打ちが続いた。ちなみにプジョーの前身は1850年代に女のスカートをふくらませる鯨の髭を鋼線に換えて一財産造った鉄屋で、1880年代自転車製造、それに発動機を付け、三輪、四輪と発展成功させた会社だ。
ということで、1800年代のレースは、もっぱら鉄屋/プジョーと木工屋/パナールの争いと云えなくもない。

レース車ではないが初期プジョー/1885年

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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