1885年/明治18年にこの世に生まれたダイムラーのガソリン内燃機関は、直ぐに自動車用動力として命を吹き込まれた。一気筒137ccはたった0.5馬力だったとはいえ1800回転という、当時としては驚異的高回転で廻ったのだ…回したのは仏人ドディオンで、一体鋳造が常識だったシリンダーヘッドを組立型に改良、軽合金のクランクケースなど、これが近代型発動機のスタートだった。
その0.5馬力は89年には3.5馬力に、1901年には4.5馬力、1902年には8馬力へと進化を続けて、自動車や自動二輪車に供給された。その数、実に4000基に達したが、いつの世にもある海賊版を含めれば万を数えるのではなかろうか。
1881年当時25才のプレイボーイでメカ好きのドディオン伯爵は、パリの玩具屋で精巧な蒸気機関を見つけた。その製作者で貧しいブートンを玩具屋のオヤジが伯爵に紹介して、名コンビが誕生する。
早速、目標を蒸気から内燃機関開発に転じ、パリ博覧会に出品したのがドでかい2サイクル12気筒星形発動機…これがコンビの発動機造りの始まりだった。
ドディオンエンジンの進化と後追いエンジンの増加で、1900年フランスでは自動二輪車1万1252台/自動車5825台が登録されていたが、03年になると1万9886台/1万9816台へと増加する。
当時のフランスは実用エンジンのメッカで、ちなみに01年のロンドン自動車ショーに115社が参加したが、115社の製品が、ドディオン、プジョー、ミネルバ、ケルコムなど、フランスやベルギーからの輸入エンジンを搭載していた。
当時の英国は、WWⅡ以後の日本のように、内燃機関に関しては追いつけ追い越せと努力する後進国だった。軍用バイクの世界初は英軍と云われているが、エンジンはコベントリー製とはいえ、ライセンス生産のドディオンだった。その連絡用軍用バイクはWWⅠでは、トライアンフ1社だけでも3万台に達したと聞く。
一方、戦争道具を造るのに定評のあるドイツは、WWⅠ中に陸軍将校のフォン・ビューローが、指揮下のバイク4000台のサイドカーに機関銃を取り付けて活躍したが、その機関銃付サイドカーの活躍はWWⅡまでに及んだ。
日本人の悪い習性は、痛い目を見てから驚き注目し、時には大金で技術を買い入れる。先見の明ということに関しては、欧米を見習う必要がある。
話しを19世紀に戻すと、平和な科学者のはずのベンジャミン…フランクリンは、パリでシャルルの水素気球の成功を聞くと「これほど未来に可能性のある発明を私は知らない」と英国に報告し「5000個の気球に二名の兵士を乗せれば軍艦で1万人を運ぶよりローコスト」と試算し「雲の上から音もなく兵士が降下し加える強烈パンチ」と強調している。
それが日本となれば、1861年/万延元年フィラデルフィアで気球を見た幕府訪米使節団は「高く上がるだけで何の役にも立たない」と報告。二宮忠八の飛行機を無視した日本陸軍のDNAは、幕府以来の血を引きずっているようだ。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。