日本自動車レースの始まりーWWⅡ以後

コラム・特集 車屋四六

前回の多摩川スピードウエイは、サーこれからいう時にWWⅡ突入で、日本の自動車競争は暗黒時代に入り、自動車競争ファンは戦争が終わるのを待つしかなかった。

戦争は予想外な敗戦でレースどころではなくなったが、いち早く登場したのがギャンブルレースだった。こいつは、自動車振興を旗印に昭和25年制定された自動車競争法で生まれたから、モグリの賭博行為ではない。

二輪や四輪の賭博レースは、船橋、大井、川口などで開催されたが、ギャンブルレースはモータースポーツではない。それでは健全なレース復活は何時ということになると、その源流は昭和26年/1951年のSCCJ/日本スポーツカークラブということになろう。

が、メンバーはアメリカ軍人軍属に少しの日本人という構成で、最初のレースは同年9月の船橋競馬場のダートトラックだった。

船橋競馬場のダートコースを疾走するSCCJ会員のスポーツカー:日本初のスポーツカーレース

公営競馬場でアマチュアの自動車レース?SCCJには米軍将校やMPで位の高いのが居たから、どこの施設も「レースをしたい」と伝えれば、依頼か命令かの判断せずに「イエス」と応えなければならなかったろう…当時の相対関係は、戦勝国軍人と敗戦国日本人、そんな立場では全てが、ご無理ごもっともだった。

中でも大イベントは、51年9月の東京~京都という公道レース。進駐軍だからこそ開催可能だった。ちなみに日本橋から二条城前まで一着の所要時間は8時間43分だが、もっと早いのが居たが、名古屋で警官に捕まった、と後で関係者から聞いた。

が、後続の参加車に高級将校が居て、名古屋の憲兵司令部に連絡して、即釈放になったそうだ。更に52年7月には、東京~日光間で、スポーツカーによる、日本初のラリーを開催している。

「長い物には巻かれろ」権力者には逆らわないという諺は、まさに当時の進駐軍人対日本人に当てはまるが、1952年のサンフランシスコ講和条約発効で、日本人の立場も良くなり、駐留軍人軍属が大量帰国すると、自然発生的に、SCCJの活動も休眠する。

55年/昭和30年になるとSCCJは目を覚ますが、今度は日本人主体で米人が少ないという構成。一方、米軍将校中心の東京スポーツカークラブ/TSCCがあり、共同イベントなどが開催されている。ちなみに日本初ヒルクライムは、56年7月SCCJ伊豆長岡で開催されている。

55年には日本ダットサンクラブ/NDCが発足し、ジムカーナやラリーを始めるが、会員にはSCCJと重複在籍者も居て、イベント知識を流用出来るのが幸いだった。

新SCCJにも位の高い米軍人が居たので、白井飛行場、調布飛行場なども利用することができたが、飛行場が米軍から防衛庁管理に引き継がれるにつれ、使用することができなくなった。

で、ほぼ日本人主体のSCCJとNDCは、江の島でなどの駐車場でジムカーナ、伊豆長岡でヒルクライム、公道ラリーなどを開催して、日本モータースポーツの灯をともし続けて、63年鈴鹿サーキット開催の日本グランプリで、日本のモータースポーツは一気に花を咲かせたのである。

SCCJ主催伊豆長岡ヒルクライムを疾走するロータスエラン

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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