生まれるのが早すぎたトヨペットSA

コラム・特集 車屋四六

トヨペットSA誕生は昭和23年/1947年・マッカーサー憲法と揶揄した新日本国憲法発布、日本ダービー復活、学校給食開始、真空管ラジオからは♪山小屋の灯火♪港が見える等が流れていた。

神国日本の敗戦間もない東京には、焼けトタンのバラックが点在し、新宿や池袋、そして新橋など大きな駅周辺には闇市があり、其処には食べ物、着る物、何でも豊富に並んでいた。

その闇市、始まりの頃は、小屋はなく、地面に敷いた筵が店。時には新聞を敷き着ている軍用外套をやおら脱いで売るというような光景もあった。復員したばかりの兵隊の困窮の果てだった。

初めてトヨペットSAに出会ったのは、そんな新橋の闇市だった。
中学の仲間と飴を買いに行ったのだ。万年筆ほどの白い棒飴が一本5円、葉書2円の頃だから子供には高い買い物だった。

当時の子供達は下駄履きで遠くまで歩くのが当たり前。麻布十番に近い我が家から新橋に着いて、見つけた中型車を前に「こいつは日本製?」「いや外国製?」と揉めたのは、ダットサンとは異なる垢抜けた姿、バタ臭さが原因だった。

さて、トヨタの乗用車造りはWWⅡ以後と思っている人が多いが、1936年に観音開きドアの大型AAを、戦中は軍用AC型乗用車そして貨物車、また民間用木炭燃料のバスなども造っている。

インチ基準のAA型に対し、戦時型はセンチ基準に変わっている。
当時の軍部の英語禁止のせいで、野球のストライクは「真ん中」、アウト「駄目」、エンジン「発動機」。ステアリングハンドル「走行転把」、ネジ回し「柄付螺回し」などと珍妙なのもあった。

トヨタAA型/1936年:直六OHV3389cc65馬力・全長4750・全幅1750・全高1750㎜・WB2850㎜・車重1500kg/トヨタ博物館蔵

敗戦→占領でGHQから禁止の自動車生産解禁が47年、日産は戦前型ダットサンで8月に再開したが、小型経験がないトヨタは?と心配をよそに、年末にトヨペットSAを完成発表した。

一目瞭然、それまでの日本にはない流線型の見事なスタイリング、バックボーン形式の車体は斬新で、機構的にはアメ車より進んでいたのである。

蒸気機関車と競争して高性能をアピールした

直四SV995cc・27馬力は時代遅れだったが、外車でも後輪リーフスプリングの時代、四輪コイル独立懸架は信じられない斬新さ、で乗り心地が良く、斬新モノコックボディーが居住空間を稼ぎ出していた。憧れのアメ車同様のコラムシフト、ラジオまでが着いていたのには驚いた。

が、トヨペットSAは売れなかった。売れたのがたった215台。敗戦からわずか二年、荒廃した国土、貧困経済さなかのでSAを買うオーナーなどいなかったのである。

トヨペットSA:全長3800×全幅1590×全高1520㎜・車重1170kg

もちろん成金は居たが、大企業の経営者、大臣高官を含め彼等が乗るほとんどが、大きなアメ車だった。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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