「モーリスマイナー」アナザーモーリスって知ってる?

コラム・特集 車屋四六

ポルトガルから中国へ返還されたマカオには空港もできたが、それまでは香港経由、ジェットフェリーで約一時間を要した。

80年代から毎年取材に行くようになったマカオグランプリでは、仕事柄、前座のクラシックカーレースが好きだった。ジャガーSS100や古いアストマーチンやアルファロメオなど、実に楽しい。

ある年のこと、懐かしいモーリスマイナーを見つけた。WWⅡ後に登場して、一世を風靡した英国生まれの有名な大衆車である。

初期のモーリスマイナー/トヨタ博物館蔵

1950年代の日本で自動車雑紙のグラビアページは、先ず米車、次ぎに英車、それからドイツ→イタリー→フランス、最後に日本車が少々という順番だった。云うなれば人気の順ということ。

いずれにしても、大型のアメ車に対し、中小型では英車の人気が高かったということ。その昔、WWⅡ前後の英車は、輸出で外貨を稼ぐ優等生だったのである。

その中でも、48年誕生のモーリスは、48年に誕生してから22年間に150万台を売った世界的大衆車で、外貨稼ぎということなら優等生てき存在だったのである。

モーリス社の創業は1913年/大正12年、そこから派生したのがMG(モーリスガレージ)。それにウーズレイとライレイを含め、ナッフィールド子爵が統合合併してナッフィールド社が誕生する。

そこでモーリスマイナーを開発したのが、有名なAイシゴニス技師、後のミニを開発する人物である。

モーリス自動車1920年頃の広告:当時人気の大衆車モーリス・カウリー

その諸元は、全長3780×全幅1650㎜・直四SV918cc・27.5馬力は、52年にOHV803cc・30馬力に、更に55年には949cc・37馬力になり、モーリス1000を名乗るようになる。

ちなみに初期の最高速度102㎞は、1000で160㎞に達し、トップ写真のマカオの1000は、ラジェーターグリルから55年登場のOHV37馬力型ということになる。

日本の路上で駐留軍兵士達のマイナーを見るようになるのは53年前後からだが、そのリアウインドーのステッカーに{Another Morris}…英語音痴が学校で習った英語では意味が判らなかった。

ロシア大使館から六本木に向かい、首都高の下、最初の交差点角の左にフェラーリ、その向かいにアウディのショールーム=昔はポルシェの代理店三和自動車のショールームと工場だった。

が、三和自動車が来る前は、瀟洒な洋館が建つ大岡子爵の屋敷だった。先祖は大岡越前守だが、大岡さんは私のグライダーの教官でもあり「殿さん」と親しく呼んでいた。

殿さんはケンブリッジだかオックスフォード大学と聞いたので、ステッカーの意味を聞いたら“これぞモーリス”“モーリス此処にあり”と解釈すれば良いだろうと教えてくれた。

茅場町で修理工場をやってた頃の客、八丁堀の鋼材商の主人が53年型のオーナーだった。ある時店の客、テアトル東京の吉岡社長から「家内の車を」と云われて紹介して喜ばれた。

そんなモーリスも英国自動車業界の凋落につれ衰退、合併劇に翻弄されたあと、モーリスの商標権は中国南京汽車に帰属している。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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