超高性能エンジンを搭載したホンダS600

コラム・特集 車屋四六

浜松でホンダが産声を上げたのは終戦から3年目の昭和23年。
それから僅か13年で、世界最高峰マン島二輪レースに完勝するとは誰も想像しなかった。が、本田宗一郎は更に先を見据えていた。二輪で到達した技術を踏み台に四輪市場への参入だった。

で、登場したのが軽自動車だが、これだけなら別に感心するほどのこともない。が、1963年発売のトラックの360ccは、何とDOHCだったから専門家もビックリだったのだ。

と驚いていたら第二彈が続く。62年晴海の第九回全日本自動車ショー展示のS360とS500、世界最小スポーツカーだった。翌年S500が発売されるがパワー不足と判断、64年にS600に昇格する。

いずれにしてもド肝を抜いたのがエンジン…DOHCの四連キャブと直管マニホールドはF1を連想し、出力も360ccが9000回転で33馬力、500ccが8000回転で40馬力、世界制覇の二輪とF1の技術で仕上げたホンダならではの超高回転エンジンだった。

四連CVキャブと四本の直管型マニホールド、アルミのヘッドカーバー、レースエンジンを彷彿とさせる姿が誇らしげだった

最高速度は、それぞれ120㎞、130㎞だが、360は市販されず、500も市販時には531cc・44馬力に向上、値段は45万円ほど。

が、高回転髙出力は平均的腕前ではピーキーで乗りづらく、64年に606ccでトルク強化型に進化する。早速買ったS600は、全長3300×全幅1400㎜・車重720kg・四輪ドラムブレーキ・4J×13ホイールに520-13-4pタイヤを履いていた。

精密機械のようなエンジンは、圧縮比9.5で57馬力/8500回転・5.2kg-m/5500回転・最高速度145㎞・0-400m加速は500より2秒短縮で16秒台に突入していた。

長岡ヒルクライム優勝のS600:ピンクシャツが筆者/手前赤NSUプリンツ、奥にポルシェ356、MGAの頭が

私のS600は初期モデルなので、空気抵抗低減目的でヘッドライトが剣道の面状ガラスでカバーされていたが、ぶつけて壊れるのが不評で直ぐにシールドビーム剥き出しに変更された。

幌の開閉は、本場英国製スポーツカーのどれよりも簡単で、オープン時の収まりも良かった。発進時の妙な挙動が話題になった…クラッチを合わせた瞬間、ピョコンと尻を持ち上げてから走り出す…原因は、頑固な本田社長のオートバイ屋的発想のリアサスにあった。

前輪Wウイッシュボーン、後輪のトレーリングアームが独特な中空構造のカンチレバー型の中に、二輪同様の駆動用チェーンを仕込んだから。トルクの反動で尻を持ち上げるのである。

ステアリングハンドルが、アルミ三本スポークで木製グリップが当時憧れのナルディー風なのも目玉で、スミス風回転計は1万1000回転からレッドゾーンというのもオーナーに自慢となった。短かく直立したシフトレバーの歯切れの良いシフト感も楽しかった。

S600のスポーツカーらしいインパネとナルディー風ステアリングハンドル

当時S600とトライアンフ・スピットファイヤーも所有していたが、乗り心地はS600で、悪路では車体剛性の高さを感じた。オースチンヒーレイ100で優勝した翌年の、JAF公認SCCJ長岡ヒルクライムもS600で優勝した。

このクラスのライバルはNSUプリンツやMGで、同年開催の谷田部スピードトライアルでは、中村正三郎のMGに次いで二位。中村さんは、初期GPレース等で活躍、後に代議士になり法務大臣や環境庁長官を務めた人物で、現在は袖ヶ浦フォレストウェイサーキットのオーナー。私とはSCCJの会員仲間でもあった。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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