追いつけ追い越せブルーバード誕生

コラム・特集 車屋四六

WWⅡ以前の日本は自動車後進国で、アメ車を参考の大型乗用車が1930年代半ばに日産とトヨタから登場したに過ぎない。が、小型ではダットサンが量産され、他にオオタなどが売られていた。

WWⅡ敗戦後、GHQの命令で自動車生産禁止→1947年解禁で8月一番乗りが老舗ダットサン、次が元飛行機屋の「たま電気自動車」、そして年末にトヨペットSAが登場した。

戦前型のダットサンは翌年フェイスリフトでDB型に→更に50年スリフトと進化を続け→55年戦後開発の110型に→57年210型へと進化、前窓が曲面ガラス、860cc・SVから1L・OHVへと変わった。

ダットサン210型:フロントグラスが曲面に、ラジェーターグリルも110型とは異なる

いずれにしても、世界のレベルからすれば時代遅れとしか云いようのない車で、その差に短期間で追いつこうとオースチン社と提携、オースチンA40のノックダウンを始めると、英国ではA50に衣替え、慌てた日産は急遽A50の生産体制に変更する。

この追加出費は当時の貧乏日産には辛かったろう。英国では後進国だからA40で良いじゃないかだったろうが、日産の目的は最新技術の学習だから、涙を飲んでのことと推測される。

こうして日産は、ダットサン210と高級車オースチンA50の二本立ての商売を続けながらも時節到来、満を持して登場したブルーバード310は、オースチンの技術を学習した集大成だった。

ようやく先進国レベルに追いついたブルーバード310型:大衆車と銘打ったが未だ大衆には高嶺の花

メーテルリンクの名作「青い鳥」からのネーミングは、川又克二社長と聞くが、日産将来の希望とはいえ、強面(失礼)川又さんのセンチな名前には違和感があると話題になった。

210からの1L・34馬力で最高速度105kmは画期的で(後に45馬力にアップ)、更に1.2Lも追加された。垢抜けた姿とアメ車流三速コラムシフトも斬新で、尾灯の形から「柿の種」と愛称された。

この時速100㎞は、車好きな仲間と物議をかもした…「オイッ100㎞出たぞ」「そんなに出るわけない」と誰も信用しなかったのだ。

で、堀を埋めて完成直後の新橋土橋から京橋までの首都高(無料)で、新橋から全開加速→朝日新聞社横あたりで時速100kmになり、悪ガキ共も納得した。日本製小型車が100kmを実証した瞬間だった。

昭和34年にはTVの本放送が始まったが、40万円以上もする受像器は、ブルーバードと共に大衆には縁がなかった。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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