シトロエン2CV、世紀の傑作ジャベルのアヒル

コラム・特集 車屋四六

日本の敗戦で飛行少年の夢は消えたが、意外に早い占領軍の空の解禁で復活したグライダーで、一度は諦めた私の空の夢も復活した。

早速、復活したばかりの慶大航空部に入部したが、未だ敗戦の後遺症が残る昭和20年代末期、大学も貧乏で機体はなかった。

そこでOBが集合、日本最高のソアラーを作ろうということになった。そして元川西飛行機副社長坂東舜一先輩の指揮のもと、ソアラー造りがスタートした。

先ず資金繰りは、小林一三先輩、藤山愛一郎先輩など、今では伝説の財界人にはじまり、足りないところを新明和工業(元川西飛行機)川西龍三社長にお願いということになった。

で、機体の基本設計は三菱一式陸上攻撃機開発の本庄季郎、翼型決定は空力の権威山本峰雄、それを滑空機製作図面に起こす工学部学生の指導を元男爵宮原旭、そして製作は横河製作所と決まった。

本庄、山本両氏は帝国大学、宮原さんはオックスフォードと聞いたが、横河製作所横川金三郎社長、通称金べえさんは先輩だった。

その工場は芝浦天王洲橋きわにあり、軍需がなくなり空いた工場で試作が始まった。木工のベテラン高橋さんは、戦争中川西飛行機で、モックアップ造りに腕を振るった匠だった。

製作開始から三年、筆者が航空部主将の時大学に引渡した日本一高性能ソアラー三田式:資金面で最大の援助を受けた川西龍三先輩にちなみ{川西号}と命名…その後同型機が多数活躍した

我々文化系学生は、雑用手助けでほぼ毎日通った。ある日のこと、バラバラになった自動車部品を床に並べて金べえさんが考えこんでいた。シトロエン2CV で「タクシーの使い古しをレストアするから君ら手伝え」と云うのだ。

終戦後タクシーのほとんどは、戦前の日本製フォードやシボレーの木炭車だったが、昭和20年代半ば既に寿命が限界で、輸入車に飛びついた。が、輸入量が少ないから、手当たり次第買った中には、2CV、VWカブト虫、ディナパナールなどタクシーには不向きな車も多数…それが世界に名だたる日本の悪路ではたちまち悲鳴を上げて、廃車続出。それが金べえさんのシトロエンだったのだ。

レストアが始まると、さすが元軍需工場、熟練工が再生する部品はオリジナルより上質だった。足りない部品を買いに行かされた輸入元日仏自動車で2CVの新車は75万円だった。ヤナセでVWが95万円だから、ずいぶん安い外車もあるもんだと感心した。

最初に輸入された2CVは車検が通らない…速度計がないから駄目という。フランスに問い合わせると「速度計が必要なほど速く走らない」というので、仕方なくAピラーに取り付けるオプションの小型速度計を輸入してパスという経緯がある。

2CV のお目見えは1948年。パリショーで除幕した大統領がその姿にあ然とし、ジャーナリストは「ジャベルの醜いアヒルの子」と酷評したが、人気は上々、92年迄に387万台余を送り出した。

{ジャベルの醜いアヒルの子}は売り出せば好評。写真は50年代初期の姿

もしWWⅡがなかったら、2CVの誕生は7~8年早かったろう。

30年代末ノルマンディーの荒野を沢山の2CVが実走試験中で、40年頃ショー出展の準備中に独逸軍侵攻、実験車は全て破壊、の命に反して何台かが隠され、それが後年発見されたのだ。

レストアが完成した年の夏、軽井沢ゴルフ場に得意げに乗り付ける金べえさんを見つけた「こいつは凄いよ満タンで軽井沢往復できる」と嬉しそうだった。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々

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