幻のP-1/スバル1500

コラム・特集 車屋四六

敗戦占領下の日本、GHQの財閥解体令で三井、三菱、日産など大企業が分割されたが、その中に中島飛行機も含まれていた。

分割された会社は、富士精密、富士産業、富士自動車など、富士が付く会社名が多かったが、GHQの顔色を伺いながら合併を繰り返し、徐々に元の姿を取り戻していった。

そして六社合併で誕生したのが富士重工だったが、本来は七社になるはずだった。が、富士精密が立川飛行機系たま自動車との合併でプリンス自動車になり、七社合併は実らなかったが、六社集合の結果、星が六個のエンブレムが誕生したのである。

バラバラだった頃の各社は、会社存続と社員の生活保障のために何でも作った。バス車体、映写機、二輪車、等々手当たり次第に。その中にスクーターがあり、それが新生富士重工になって発売され大金星を射止め、ラビットはスクーターの代名詞となる。

日本にスクーター市場を生み出したラビット:三鷹工場と群馬吞龍工場で競合試作され、三鷹製はポニー、群馬製をラビットと命名。写真のラビットには吞龍工場の銘板がある

そして次のヒット作スバル360と繋がるのだが、その前に立派な中型車あったことを知る人は少ない。その名はP-1、幻の車だ。

財閥解体後の一社、富士自動車は飛行機屋得意のモノコックボディーのバス車体造りで当て、次の目標が乗用車P-1だったが、エンジン担当の富士精密の不参加によるコンビ解消により、別会社からの開発供給でP-1は完成した。

その完成は昭和29年/1954年で。商品化は新生富士重工に引き継がれ、スバル1500と命名された。さてスバル名誕生の由来だが、スバルの漢字は{昴}で、六個の星が並ぶことから六連星=むつら星と呼び、古事記や日本書紀にも出て来る由緒ある名である。

その星六個は大昔の日本人の観察で、平均的視力なら6~7個見えるはずだが、髙視力の持ち主で25個という記録もある。ちなみにギリシャの詩人ホメロスは6個、ハイドン7個という記録があるが、望遠鏡で見たガリレオは36個発見と報告している。

さて、日本初フルモノコックボディーのスバル1500は、発売されなかった。その原因は欠陥ではなく、莫大な生産設備や販売網整備の資金繰りが、新生富士重工にはできなかったのである。

もっとも、その反省で、少ない資金で済む軽自動車開発に転向、名車スバル360誕生につながるのだから、世の中皮肉なものである。

大学生の頃、新明和工業(旧川西飛行機)の川西龍三社長に、グライダー製作の寄付金頂戴で通った丸の内にスバル1500が駐まっていた。新生富士重工の本社だった岸本ビルの前である。

スバル1500は、20台ほどが量産試作されたと聞くが、社用車として、また工場所在地の群馬県太田市のタクシー業者により、実走実験を続けたと聞いている。

乗用車では発展途上の当時、自動車技術工業会で国産乗用車を集めて共同試乗会を開催していたが、スバル1500の翌年に登場のクラウンより評価が高かったというから、幻となったのが惜しまれる。

テントウ虫の名で親しまれ一世を風靡したスバル360

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。